PERSONA/鬼海弘雄 草思社

この読書感想文でも以前紹介した『や・ちまた王たちの回廊』(99年2月)の続編ともいえる写真集です。

浅草寺境内を通り行く人に声をかけ、擦り傷残る壁をバックに撮った肖像集なのであるが、すさまじい迫力で心が泡立ってしまいました。
本来は何処にでもいる無名の人々であるはずなのに、同時代に現存しているとは思えない「生物の一期」を感じてしまうのです。
多言を弄して表した一存在の特殊性や、頭で理解しているかけがえの無さが、そんな行為を嘲るが如くに一枚の白黒写真として焼き付けられています。

他方を眺めている眼球や、影と無為を掴んでいるかのような節くれだった手、身を包む布地は奇妙に捩れたまま中身の肉体を曝け出し、存在しているだけで他存在へ不可避な関係を強いている事実を突きつけています。

我々の存在は、それだけで「貴い」と同時に「暴力的」ですらあるのです。

子どもの中世史/斉藤研一 吉川弘文館

近年、子どもにまつわる事件が頻発して不快感がぬぐえません。
戦争や悲話で子どもの動向は、それを見る私たちの胸に鋭く届き、今現在の問題と修正を決意させる大きな動機になっています。
それほど大人たちの心に深い影響を及ぼす存在でありながら、彼らの存在を危うくさせているのが当の大人であることに、言い得ぬ不条理を感じてしまいます。

それぞれの時代で、あらゆるものがその時の「意味」を背負い、役割の中で存在していました。
時代や社会と存在は、連続的な相互作用の関係にあり、常に互いに修正の制約を受けています。
だから普遍な意味も「本当の」という定点も、基本的にはありえず、常に刹那に漂いながら取りあえずの安息を真摯に生き、また疑念の山路を登る相互運動を繰り返すしかないのです。

今の視点で過去を眺めるのではなく、過去の視点で過去を眺め(努力して)、今に通じる存在の幾重にも重なるフィルターの屈折から浮かび上がる総体が、かろうじて「現在」だと言えるのかも知れません。

本書は、いつの時代でも興味深い存在である「子ども」の世界に、やさしい語り口で誘ってくれます。

安産を祈念しての「甑(こしき)落とし」「土器破り」「胞衣(えな)の土器納入」の風習や「アヤツコ」という額に「犬」の文字を書いて魔物や悪鬼から守っていたことなど、膨大な絵巻物や文献からミステリーを読み解くように燻り出してゆきます。
なんで「犬」なんだ?という疑問にも、「犬は通力の物にて」(『宇治拾遺物語』)というだけでなく、糞尿や死体も食べる死穢(しえ)の存在で魑魅魍魎達をも避けて通るからだ(『参語集』)と教えてくれます。
「アヤツコ」は昭和10年の民俗調査でも報告されていて、男子と女子に違う印(十字印であったり、二つホシ、紅等)を付けていたと写真や図で説明してくれ、首や傘や籠の中に吊って守る「懸守り」、襟首に縫い付ける「背守り」など興味が尽きません。

「背守り」は、「押し絵背守り」(巾着型や蝶・柘榴模様の袋に神仏のお守りを入れる)と「糸縫い背守り」(男女向きが違う12針の縫込みに房がついている)に大別され、囲炉裏や井戸に落ちたとき神様が背守りを摘んで引き上げてくれるというのである。
生後3日、7日、21日などに産毛剃りというのがあって、その時「ぼんのくぼ」の毛だけは残すらしいのですが、それも同じ理由のようです。

そうやって必死に守ったのは、目に見えぬ魔物達からだけではなくて、実際のところは「ヒトサライ(子取り)」などでもあったのです。
頻発する誘拐、人身売買は、単に労働力確保だけではなく、薬用としての臓器目的であり、多くの文献にどうどうと記述され医者の秘伝でもありました。
生まれる前の胎児すら、その対象だったのです。

残念ながら死して後も苦難は続き、有名な「賽の河原」の成立と変遷へと論は続きます。
この「賽の河原」論は、図像学的に中・近世の人々の子ども像と「石女(うまずめ)」を浮かび上がられていて、知らないことばかりでした。
時代によって、その河原にいる子どもたちの意味も編成(鬼や地蔵菩薩・・・)も変わったり、なぜ罪無き子ども(胎児が描かれた時期もあります)が地獄に堕ちるのかとか、「石女」が一人しか生んでいない女の人を指したとか、どうして石女地獄で女性が灯心(灯油に浸す紐)で竹の根を掘り続けなくてはいけないのか、なぜ灯心なのか、なぜ竹の根なのか等々・・・

暗澹たる気持ちで図像探索していると「珍皇寺参詣曼荼羅」の境内画で、仮小屋の賽の河原の立体風景に、じっと手を合わせる婦人を見つけました。
いつの世でも手を合わせる「大人」がいて、子どもを慈しむ「気持ち」があり、人々の希望を背負う「子ども」達がいたのです。
(97年5月感想文)

「吉本隆明×吉本ばなな」/ロッキングオン

吉本隆明は、学生時代に最も影響をうけた思想家です。
考えるという行為は思いっきり力仕事で、決してナルシスティックな面だけではなく、汗を流した後の壮快感を伴う運動であると教えられました。
その事を「快」として感じてしまった後は、パブロフの犬よろしくその行為を繰り返し続け、もはや逃れえなくなった今、どうしてくれるんだよと憎みがましく言ってみたりもします。

しかし、今回この本を読もうとした動機は、むしろ娘のばななにありました。
彼女の本は一応全部読んできているし、第一期ばななは完結したと宣言する彼女には注目しているのです。

ばなな自身、対談集にありがちな「変んな子話」をしていますが、ちょっと変った子なんていう生易しい次元ではありません。
どこか壊れていると言った方が正確なぐらい、領域の特異性を感じてしまいます。

誰しも心の傷はあるし、コンプレックスは持っているものですが、異界の域に入るには、それなりの深さとズレが必要です。
誰でもなれる訳ではありません。
生きにくくはあるかも知れませんが、限られた人にしか見ることが出来ない、選民性もあるのだと思います。

もう1点、興味をもって読んだのは作品の制作(?)過程です。
ある場面のイメージを書く為に、そのイメージに合う言葉と適さない「言葉の数」を数えると言うのです。
また、複数のイメージの融和エリアでは、同じように言葉のイメージ相互を計算する(!)という作業を繰り返すらしいです。
詩作なら想像できるのですが、散文作業でも言葉の「数」を数えているとは・・・

尚且、読者のイメージをいわゆる普通の人に置いていて、しかもリアルなイメージ場面を想像して書いているらしいのです。
育児に疲れ果て主人にも大いに不満がある主婦が、フッと息抜きに台所で数ページ読む時、このシーンをどうイメージするか?
毎日仕事に追われているサラリーマンが、電車待ちの少しの時間書店に立ち寄ってパラパラとめくったこのページが、彼の頭の中にどんな情景として染み込むか?など・・・

作家という職人なら当り前の作業なのかもしれませんが、彼女が作り出す作品世界がそれこそグローバルな規模で受け入れられているのを見るにつけ、間違いなく病いに近い異界すらまたぎ越し、その世界を見れる人であるのだなと思います。

そんな彼女は、読者(僕も含めて)と時代に対して、大丈夫か、元気出そうよ、と呼びかけてます。
そして僕らもまた、彼女に対して同様の(!)感想を抱いてしまいます。
このコミュニケーションのイメージが、彼女の作品の最大の魅力なのかもしれません。
(空白に書き込む、徳さんの独り言97年)
情報が多量にあるということは、それらの情報を選択する根拠が、限りなく希薄になるということである。
同じ情報を選択した同志も、流行や偶然、気分等に大きく支配されており、自分が選んだという確信が持ち難くなっている。
(2003年11月)