進研ゼミ中学生講座の編集部に送られてきた、2000通余りのイジメに関しての手紙です。
手紙の内容もさることながら、肉筆が出来うる限り載せてあり、その筆圧、筆跡が現している彼らの置かれた世界に、言葉を失ってしまいます。
そこにははっきりとした恨み、怒り、絶望が浮かび上がり・・・・
イジメに関しては、私なりにいくつか視点を考えているつもりですが、実際に我が子に及ぶ時は、そんなこと全て捨てて破壊的に闘わねばならない覚悟だけはしています。
そうでもしなければ、その状況を変えることは無理だと思うし、全くバカげているとも思うし、情けないことだと思います。
そんな状況になるまで息を潜めて待っているわけにもいかず、少しずつ考えてみようと思っています。
小学高学年から高校ぐらいの思春期の時期は、基本的に親や先生、大人は「外部の人間」と認識する時期であると思います。
思春期とは、外部世界の想定を通して、自分の内面世界を作り上げる重要かつ特異な時期です。
子どもはその頃、何でもかんでも親や先生なんかに語りはしません。
語る対象は、自分と友人だけです。
しかしこれらの本で書いている子供らは、一様に友人への不信を語っています。
しかもいじめる側、いじめられる側、傍観者全てが、同じ人間不信の刻印を刻まれているのです。
確かに、以前から弱者いじめの構図はありました。
しかし現代のイジメとの決定的違いは、この人間不信の共通認識を、関係者全員が持っているということだと思います。
思春期に構築すべき自己内界と最も親密な他者(友人)との関係性のうち、後者は成立していない、いや成立できなくなっているのです。
ただただ、絶対的孤立感が、当事者全ての気分の背景としてあります。
大雑把に言って、大人や社会が体現する外界と自己世界の境界は、交情可能な近しい他者との摩擦熱によって淡く出現してくるものです。
この摩擦熱を奪われてしまうと、内的世界という心象世界はうねる力点を失い、細胞壁に隔離された「弧絶」のみが実感として残ります。
私は「存在の孤独」は必要だと考えますが、心象世界に裏打ちされた「孤独」でないと、苦悩の質に大きな違いが生まれてくるものと考えています。
これは、本来的な思春期の基盤が初めから壊れているとしか言いようがありません。
この原因は、現代の教育体制にもあるだろうし、社会構造にもあるし、時代の病いにもあり、それらが複合的に影響を及ぼしているのでしょう。
これらは、イジメという問題だけでなく、様々な問題の形として表れてきているはずで、現代思想、差別、政治、医療、性、流行、文学、宗教、事件など、同時に考えてゆかなければいけないと考えます。
問題の原因は数点にあるのではなく、無数に相互影響下の元にあるのですから。
さめた言い方をすれば、僕らは彼らにとってよその人間であり、かつ過酷な状況を強いている「敵」であるという認識に留まるしかないのです。
無力さを咬みしめながら、最後の闘いを回避する闘いを始めなければなりません。
今も、どこかで、絶望の淵に佇んで震えている子どもがいるから。
(97年5月感想文)
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