著者の父、島尾敏雄に学生時代心酔していました。
その世界は、どこかしら自分の心的世界と呼応しているように思えて、鑑賞とか読解などはまったく出来ずに、ただその手触りに癒され、安心を求めていたように思います。
あれから20年近く経った今でも、島尾敏雄については語る言葉を持ち合わせていません。
無意識な選択がそうさせているのでしょうか。
卒業してから島尾敏雄の文章を読むことは無く、息子信三の写真と文章の出会いを楽しむように読み次いでいます。
「やさしかったおかあさんに、どうして今ごろになって逢いたくなったのでしょうか。いいえ、これまでずっと私はやさしかったおかあさんを捜し求めていたのかもしれません。」
そんな想いで著者は、4人家族の暮らした街を辿りながら東京から奄美への旅を始めたのでした。
少し長くなりますが、小単元の全文を転記します。
国技館のドーム
小岩から秋葉原への途中の両国も焼け野原でした。そこには、広島の原爆ドームに似た国技館の建物が、爆撃を受けてコンクリートの外側だけを残して放置されていました。そこで、進駐軍の払い下げ物資の投げ売りが行われていて、マヤはまた「おしっこー」って言ったり、欲しいものを勝手に手にしていたりするのです。自分の洋服選びに夢中なおかあさんの目をごまかして、ゴミ箱のような売場からマヤが欲しがった赤い上着を私は盗みました。どうしてこんなことをやってしまうのか、やった後になって悩むのですが、子どもの目にはおとなのやっていることは警戒の行き届いていない隙間だらけで、そんなことが簡単にできてしまうのです。
赤い上着は縁側の下に隠しておいて、おかあさんのいないときに着るようにしていたのに、マヤはすぐに飽きて、その処分に困ったので、駅前の映画館へ行ってそこの入口に投げ捨てました。しばらくの間、赤い上着はドアの釘に忘れ物として吊るされていました。マヤはそのドアの前の手すりで、泥で汚れたパンツを丸見えにさせながら、近所の女の子たちとぶら下がりをして遊ぶのが好きでした。
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