正直、困ってしまいました。
いや、未だに自分の心の襞をつつき、めくり、つねり、舐めては、顔をしかめています。
性については、この感想文でも多くの書物を紹介し、マイノリティの問題や個々の性自認と問題提議をしてきた「つもり」です。
障害者や差別の問題も、自分なりに迷いとともに提出してきた「つもり」でした。
しかし今ここに来て、その二つの問題が私の中で大きく揺さぶられてしまいました。
私が「性」の問題と「障害」の問題を執拗に取り上げるのは、言説や文化的構築装置の作用として出現してくる「存在」とそれでも身体が「存在」していることの両者に横たわる深い溝を燻り出すのに、最も社会的問題として考えやすいと考えているからです。
ともすれば、フーコーの言うような自存的に存在するかのように見える主体という現象が、なにかへ「自発的に服従」する事によってしか現れ得ないと言う文脈へ傾いてみたり、「それでも行われている」という非言説実践に座り込みたい欲求に駆られたりもします。
希望とすれば、なんとかこの切り立った細き尾根を、両方の背景を眼下に睨みながら歩んで行きたいと思っています。
たとえそれが深い霧に覆われ、ブロッケン現象を眺めているだけだとしても・・・・
「障害者の性」を考えた事がありますか?
直接セックスの相手となるセックス・ボランティア、
障害者の性交時における着脱、体位保持や運動の第三者介助、
四肢が動かず自分でマスターベーションできない人へのマスターベーション介助、
有償でセックスの相手を派遣するオランダ「SAR」、
公費によるセックス助成金、
日本にもある障害者専門風俗店や訪問サービス、
制度利用者のほとんどが男性であることは、女性性の抑圧問題と繋がらないのか?
有償でセックス介助を行い、介助者にその金銭が渡ることでの売春構造との相違は?
障害者の性を語る時、男性障害者の問題が主になるのは、社会の性が男性「性」の反映体として語られるから?
自力で動く事ができない障害者は、セックスを諦めなければいけないのか?
小さい時から性の情報や知識を回避させられてきた障害者達は、むしろ性教育の重要度は高いのではないか?
排泄・食事などの介助を他人に委ねている者は、セックスを望むことは不遜なのか?
身体障害者や知的障害者の人達が、当然ながら性欲を持っているのに何故問題にならなかったのか?
「正常位」は、身体障害者にとって困難な体位である現実と憧れ、「性」すら障害者とされるのか?
障害者自身が性を語りづらい社会通念は?
知的障害者の性は、禁忌なのか?
障害者の性と出産・育児を、どう考えていけばいいのか?
障害者の同性愛者達は?
女性障害者の生理と子宮摘出手術の公然の秘密?
特老施設や養護施設で行われているという「性の介助」や「性の排除」の現状は、なぜ隠蔽されているのか?
なぜ、私は「障害者の性」を問題と考えるのか?
介助は大きく分けて「ADL(ActivitiesofDailyLiving)日常生活動作」と「QOL(QualityofLife)生活の質」に分けられます。
性の介助は、排泄や食事・身体移動などの生存に直結する介助なのでしょうか?
それとも、自分の趣味や買い物・楽しみなど、生きてゆく質を高める介助なのでしょうか?
「性」は、単純に快楽や楽しみだけではないように思いますが、「性行為」が出来なければ生きてゆけないわけでもありません。
しかし、豊かな(もちろん質的に)性生活をおくるということは、「豊かな生」に間違いなく繋がっているし、自己のアイデンティティに深く関わっている「性」は、自分が「生きている」ことと不可避であると思います。
「性」とは、何なんだ?
そして、「性」が生きていることと密接に関係しているのに、障害者は性的存在で「すら」なかった、「性」なき「生」を生かされていたのです。
なぜ?
数年前にこの問題を知ったのですが、なかなか正面を向いて考えられず、ずっとポケットに入れたままでした。
「ケース・バイ・ケース」と体の良い回答を用意したまま、「ケース」一つちゃんと想像し、その際の「ケース」の持つ問題を見つめようとしていませんでした。
こんなケースは、どうするの?
その時、この問題はどう考える?
プライベートな「性」は、どんな形で社会化されうるのか?また、されないのか?
初めから感じられる解り難さだけが、思考停止の理由なのか?
「障害者」が故の、思考放棄が無かったのか?
「性とは自分が生まれてきた意味を確認する作業である。」と言った障害をもった女性の言葉が紹介されていました。
本来「性」の中に、「障害者」も「健常者」もありません。
同じ性を語るとき、「障害をもった」と「」(カギカッコ)が付いてしまうような心の断層を、何度も問い直さなければいけない気がします。
と同時に、「障害者の性を語るためには、その周囲にいる人たちが自分の性を見つめることから始めないといけません。周囲の人間の性に対する捉え方が、すべて障害者への支援に映し出されてしまうから。」と語った支援者の言うように、自分の「性」が他者に影響し、影響される「性」が持つ関係性は、障害者の支援の中で浮き彫りにされやすいのに、それが故支援者側の性で語られすぎるようにも思います。
障害者の性を語ることの躊躇は、自分の性を見つめる困難や抵抗なのかもしれません。
「性」は「心」が「生きる」と書きます。
「大きなことを告白するのは難しいことではない。小さな問題を、ちゃんと自分で確認して告白する事が、本当に難しい」
(『エミール』ジャン・ジャック・ルソー)
(2004年11月)
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