まさにインド的な書物です。
インド的って、なんだと言われても困ってしまうのですが、それはインドや他国が持っている「日本的常識」外からの現実レポートのようなものです。
インドはこんなに日本と変わっているんだよ、のようなTV番組の面白おかしいレポートではもちろんありません。
しいて言えば、我々が疑う余地もなく身に付いている「日本」の価値観(もっと言えば相対化する価値観にまで上がってこないような根底思考方法)からは推し量れない異次元の価値観で成り立っているインド社会の日常風景の紹介です。
死が日常化しているインド(死を日常化から締め出している日本)での信じられない現実は、敬遠したい気持ちも湧いてきますが、一方「死」と隣り合わせの「生」または「生」と「死」を分ける視点を越えた思想が底流にあり続けている社会があることに、妙な安堵感を覚えます。
ガンジス河で沐浴している人を水中に引きずり込んで溺死させ、そのまま流してワニと魚の餌にしてしまい、金品を奪う「水中窃盗団」(日本人や欧米人が狙われているのは、自明です)汽車内に棺おけ・家具・家畜を持ち込んで移動する人々、持ち込んだガソリンが爆発炎上し、火だるまのまま走り続ける汽車、無断で出入りしないように外からカンヌキ施錠する映画館の漏電火災、鳥葬・魚葬も含めた葬式の各種と死者に対する考え方、日本の葬式代を聞いて「そりゃ、日本では安心して死ねないな!」・・・・
除夜の鐘の数についての論考「百八の煩悩」「百八は聖なる数」は、インド・中国・朝鮮・日本と広範囲の文化・時代を考証した力作です。
また、巻末のダライ・ラマへのインタヴューが、うれしいです。
日本の現状に対する憂いの質問に対して、宗教者としての深い洞察力ある回答を出しながら、
「もっとも僕は一介の仏教僧に過ぎないから、僕の見解は間違っているかも知れないけれど。はっはっはっ。」とは・・・言っている内容の成否や妥当性や知的であるとかとは別の「安心」は、「死」と「生」の枠を一まとめに飲み込んでいるインド・チベットの思想の現われなのかも知れません。
以前ダライ・ラマ政府の教育機関の本を読みましたが、その中で関係者が言っていました。
「日本は、大変な努力と進歩によって豊かな社会を作り上げ、とても尊敬しています。急ぎ足で進んで行けることは素晴らしいですが、なかには落し物をしても気付かずに通り過ぎてしまうこともあるかもしれません。
チベット人がその落し物を拾って、後でお届けできたらと思います。」
|