私の個人的な感慨ではあるのですが、「埴谷雄高」の名前は、特別の輝きを持っています。
過剰な幻想だと言われたら、もちろんそれもあるかもしれません、しかし彼が記した『死霊』の文学史上の特異さ、彼の屹立している場所の類例の無さは、まだまだ論じられる余地を残していると思っています。
まず本書を読んで驚いたのは、かの鶴見俊輔が近年の病身を押して論に選んだのが、埴谷雄高であったということです。
確かに1959年に埴谷の転向問題を「虚無主義の形成」という論でいち早く問い、断続的に論を発表し埴谷の思想に言及してもいます。
しかし、大患後10枚以上の原稿も書けなくなっていた鶴見が、なぜこの期に及んで埴谷を書きたかったのか?
なぜ、埴谷だったのか?
初めの論から半世紀をかけて書き続けてきた鶴見の埴谷論を読むと、そこには「知」と「政治」の世界を生きた「三輪高志」同士であるところの近親感が浮かんできま
す。
彼らは共に、首を傾げると夢魔が闇に立ち、夢魔と延々と会話を交わす「涅槃の革命者」だったのです。
今後出てくる「鶴見俊輔」論は、ここを押さえた論であることが必然であるように思います。
また、巻末にある加藤典洋の「六文銭のゆくへー埴谷雄高と鶴見俊輔」で、埴谷が幼少の頃を過ごした台湾時に、優しい日本人のおばさんが台湾人に接する時は別人のようになってしまうのを見たことが、人間観察の原点であると埴谷自身が語っているのを、それは隣のおばさんではなく、「母親」のはずだとの指摘には、はっとさせられました。
私は、卒業以来埴谷の地平を真剣に考えることを、どこか避けてきたのです。
確かに埴谷の政治論文や文学論は、現実を見つめての発言もありますが、彼の思想の有効性は「私は私である」の中にある「私」と「私」の不同(自同律の不快)を、重力に支配され遺伝子の螺旋が右回りである呪縛を超えた不在の宇宙(生まれえず、生まれることの意味すら拒否した宇宙)を使って表現しようとしたことにあり、その世界は無頼に生きてゆきたい私にとって、とても魅力的でした。
しかし、「私」への希求だけを喰うて「生きて」ゆける学生時代が終わった時、「生きて」ゆくことの必是の中で存在し続けようと思った「私」は、「死者の電話箱」のスイッチを切り、首猛夫と津田夫人の饗宴の快楽を守り、認めようと思っていたのです。
確かに個人の快楽を擁護することの重要性は、1985年の吉本隆明と埴谷雄高との論争をみて、吉本に分があるように思いました。
東南アジアの青年を想念することよりも、「自存在の快」は、守られるべきなので
す。
しかし、論争判定の果実であるかのような現在は、「快」はあっても「自存在」を見つけられない迷路に陥っています。
気がつけば自存在は、「快」も「自存在」も手放し、「自存在は自存在である」とは言えない(または、ひたすら言い続けている)荒野をさ迷っています。
埴谷の苦言は、お前が誇らしげに掲げる「自存在」は矢場徹吾の言う食物連鎖の果
て、存在連鎖の果てに存在し、お前の脇に常に居て、ひと時も目を離さないで睨みつけている亡者の恨み声の合唱の中にだけ、存在できることを忘れるなと言っていたのです。
宇宙誕生から食べられてきた者が集った被食王国の者達、偶然によって生まれることも出来なかった非存在王国の者達、たかが一つの宇宙の思惟形式を唯一の思惟だと
思っている者を笑う異思惟形式王国の者達・・・・・そんな王国の亡者に支えられた「自存在」が、「私」の「快」だと!あっは!
「私」は「他」の存在がなければ成り立たないと言うよりも、「私」と「他」が瞬間的に相互浸蝕を重ねる運動の中で初めて立ち上がってくる暫定的カギカッコの「私」が、単独で「私」と声を上げる欺瞞には意識的であらねばならぬと言っているので
す。
東南アジアの青年を取り上げることの政治的、経済的理由には、吉本の方に軍配が上がるでしょうが、この「私」の持つ考察は、吉本が織り込み済みだとしても、疑問が残る気がします。
「自存在」が「他存在」と不分離な関係であるなら、たとえ「不快」だとしても「自存在」の地平に「他存在」を認めるところから始めるしかありません。
「私」は、「不快」なのです。
かねてから気になっていた第五章以降の文体変化、第6章でのボート転覆の場面で、船底を見せて浮かんでいるボートの四隅にとりついた登場人物達が、隣り合ったものだけが見え対角線上の人物は見えない配置の意味、共産党スパイ事件での熊沢光子の影を感じる女性観、科学に対する信望の距離などは、いつか『死霊』再読の時、考えて行きたいと思います。
それがいつだって?
知れたことよ。
三輪与志と私が、念速で虹をかけた時さ。ぷふい。
(2005年5月)
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