戦争のこと、原爆のこと、貧富のこと、差別のこと、障害のこと、病のこと、悩みや苦しみのこと・・・・
他者を想像するとは、どういうことなのだろう?
いくら想像しても想像し切れないのが分かっていて、想像を強いられる重苦しさと罪悪感、後ろめたさと願う事への無力感を、どう考えてゆけばいいのだろう?
原爆投下日、ヒロシマを走っていたチンチン電車の運転手と車掌の7割が、14〜17歳の女学生(今の中・高生)だったのです。
1943年4月に開校し、敗戦までのたった2年半だけ存在していた「広島電鉄家政女学校」、それが彼女達の母校です。
戦況が厳しくなり、男達は戦場に狩り出され、日常生活の多くの場所で女性や少女・子どもたちがその代役を負うようになりました。
1943年9月には、国の方針として女子勤労動員促進か決定され、厚生省は男性の就業禁止職種まで指定して、女性による代替を規定しました。
「広島電鉄家政女学校」もそんな流れの中での開校だったのです。
入学式が同時に入社式であったこの学校は、たんに時代のあだ花というだけではな
く、彼女達にとっては希望の場所であったという面も否めません。
その当時、家庭が貧しかったり、家族の事情で小学から進学できずに、勉学を諦める子ども達は多数いました。
そんな彼女達にとって、賃金をもらいながら学べるという女学校は、親や親戚を納得させる事が出来る、唯一の方法だったのです。
現に、家政女学校の入学者が、広島市から遠く離れた郡部の農山村や離島出身者、他県の女子がほとんどでした。
3期生309人が集ったそんな女学校も、終戦後男性が帰国すると人手不足は解消され、当然ながら閉校となってしまいます。
抗えない時代の中で彼女達は、慢性的な睡眠不足をおして学び、働き、親を想い、恋をして、友達と過ごし、あの日をむかえました。
「幻の女学校」と言われ、広島の人々もほとんど知らない彼女達の青春と地獄は、決して「幻」ではありません。
「幻」の命なんてものは、無いのです。
我々が想像する他者は、確かにそこに「いた」「いる」のです。
「いた」「いる」そのままの事実を想像することは出来ません。
しかし、「いた」「いる」ことを想像することは出来ます。
本書を起こした堀川さんは、2003年に初めて女学校の事を聞き、女学生を誰一人として知る人もいない現実の中で、単独で山ほどの未整理ダンボールの中から家政女学校の名簿資料を見つけ出したのが、33才の時でした。
2005年1月の読書感想文で紹介した、「夕凪の街桜の国」の作者こうの史代さんも、30代半ばです。
戦争のこと、原爆のこと、貧富のこと、差別のこと、障害のこと、病のこと、悩みや苦しみのこと・・・・
他者を想像するとは、どういうことなのだろう?
いくら想像しても想像し切れないのが分かっていて、想像を強いられる重苦しさと罪悪感、後ろめたさと願う事への無力感を、どう考えてゆけばいいのだろうか、私は。
(2005年9月)
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