「ストレス」の原罪

4月は、時期的なこともあって、仕事が大変忙しかったです。
身体もキツイし、イライラもしていました。

こりゃけっこうストレスが溜まってるなと、自分では思っているのですが、目の前の仕事や用事があると、つい脳内のアドレナリンを多量に分泌して・・・・
仕事を休んで気分転換などすれば良いのかも知れませんが、たまっている仕事が減るわけではなく、結局のところ問題解決には、繋がらないような気もします。
こんなにも忙しいのに本を読んだり、映画を観たり、テレビまで観て、時間欠乏に追い討ちをかけてしまいます。

やはりストレスが溜まるな〜。
う〜んストレスか。ストレスね〜。
ストレスが溜まった、たまったとじっと考えてみると「ス」の字も「ト」も「レ」もスッキリとした良い字だし、語感も悪くありません。

「ストレス」のイメージは悪いが、「ストレス」自身には悪意がそれほど感じられないのです。
本人には罪は無いしなぁ〜
なんだか「ストレス」に、申し訳ない気になってきました。

・・・・なんだ!案外たいしたことないじゃん、ストレスなんて・・・

と思い直して後ろを見ると、遊びにつれて行ってもらえず、ストレスが溜まった家族の視線!
こっ、これは・・・・・
(97年4月感想文)

「BADASIWANNABE」/デニス・ロッドマン 徳間書店

去年ぐらいから、NBAと大リーグにハマッてます。
とに角、彼らの運動能力はスゴイです。
はっきり言って、日本のスポーツはもう観れません。

衛星放送などで、どんどん世界水準の身体技を目にすることが増える将来、鎖国的な純血主義で守り、守られてきた日本のスポーツ界は、大変革を強いられるでしょう。それは単に、ヘタよりウマイ方が良いというだけではないのです。

現在は、他者・外部との差異を見つけて、自分のアイデンティティーを確認しようと努めても、「確かな外部」も、「自分」も見つけられない精神的不安な時代となっています。
これは、これから膨大に増えつづける情報の中で、さらに加速度的にその傾向が、強まると思われます。

残された「自分」の拠り所は、何か?

考えられる一つは、性も含めた認識する主体、身体、肉体であることは確かのようです。(「時代から創られている」という、保留はつきますが・・・)
今、フィットネスクラブが流行ったり、ジョギング、マラソン、健康食品、無農薬などの流行の背景の1つはそこにあると思います。

パソコンや社会技術の進歩のおかげで、時間的に余剰が生まれました。(洗濯機の発明で、主婦が費やしていた洗濯時間が短縮されたり、交通機関の発達で移動時間の縮尺化が起きました。)
そしてその空いた時間を、「自己が無化されてゆく」時代の流れに抗うように、肉体確認の為、身体感の飢えのため、スポーツ参加や観戦にその時間を使うようになってきているのです。
そうやって、脳と身体のバランスを計ろうとしているのだと思います。

だから、身体性の渇望が、より高度で美しい身体・身体技を求めてゆく、そういうベクトルを必然的に内包しているのです。

このデニス・ロッドマン、そんな時代の必然を知ってかしらずか、自分に向ける人々の視線の本質を嘲り、もてあそび、挑発します。

−俺はリバウンドごとに10ドル寄付したりしない。
街頭で会うNBAの試合なんか観たこともない連中に、切符をくれてやるんだ。それだけさ−
(2005年11月)