去年ぐらいから、NBAと大リーグにハマッてます。
とに角、彼らの運動能力はスゴイです。
はっきり言って、日本のスポーツはもう観れません。
衛星放送などで、どんどん世界水準の身体技を目にすることが増える将来、鎖国的な純血主義で守り、守られてきた日本のスポーツ界は、大変革を強いられるでしょう。それは単に、ヘタよりウマイ方が良いというだけではないのです。
現在は、他者・外部との差異を見つけて、自分のアイデンティティーを確認しようと努めても、「確かな外部」も、「自分」も見つけられない精神的不安な時代となっています。
これは、これから膨大に増えつづける情報の中で、さらに加速度的にその傾向が、強まると思われます。
残された「自分」の拠り所は、何か?
考えられる一つは、性も含めた認識する主体、身体、肉体であることは確かのようです。(「時代から創られている」という、保留はつきますが・・・)
今、フィットネスクラブが流行ったり、ジョギング、マラソン、健康食品、無農薬などの流行の背景の1つはそこにあると思います。
パソコンや社会技術の進歩のおかげで、時間的に余剰が生まれました。(洗濯機の発明で、主婦が費やしていた洗濯時間が短縮されたり、交通機関の発達で移動時間の縮尺化が起きました。)
そしてその空いた時間を、「自己が無化されてゆく」時代の流れに抗うように、肉体確認の為、身体感の飢えのため、スポーツ参加や観戦にその時間を使うようになってきているのです。
そうやって、脳と身体のバランスを計ろうとしているのだと思います。
だから、身体性の渇望が、より高度で美しい身体・身体技を求めてゆく、そういうベクトルを必然的に内包しているのです。
このデニス・ロッドマン、そんな時代の必然を知ってかしらずか、自分に向ける人々の視線の本質を嘲り、もてあそび、挑発します。
−俺はリバウンドごとに10ドル寄付したりしない。
街頭で会うNBAの試合なんか観たこともない連中に、切符をくれてやるんだ。それだけさ−
(2005年11月)
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