聖書の日本語翻訳の歴史/鈴木範久 岩波書店

書籍紹介文でもテレビでも「目からウロコ」ばかりが連呼され、いささか食傷気味であるのだけど、この「目からウロコ」が聖書の言葉だとは知りませんでした。

サウロ(パウロ)は、当初キリスト教徒を弾圧し、目が見えなくなってしまいます。その後イエスが遣わしたアナニアが手をサウロの上に置くと、「たちどころに、サウロの目から、うろこのような物が落ちて、再び見えるようになった。」(使徒言行録9章18節)

と言うことは、「目からウロコ」ばかり経験している私は、思い込みや不勉強が故に知らなかったというのではなく、悪行の道をまい進しているから、目にウロコが幾重にも覆っているのか!
なんとも「悪魔」のような我、どうか「神」様、「愛」によってお救い下さい!

ところが本書を読むと、「悪魔」「神」「愛」はたまた「天国」「洗礼」「霊」すら明治以降に初めて使われ、定着するまでに翻訳が二転三転しているのです。
カトリックが「天主」を「神」と改めたのは、1959年(昭和34年)の司教会議だというし、「イエス」と統一表示(カトリックは「イエズス」プロテスタント「イエス」)されたのすら、1987年(昭和62年)の『聖書新共同訳』と言うのだから、門外漢の私にとっては驚きである。

ザヴィエル(フランシスコ・ザビエル)が「デウス」にあたる言葉「大日」を採用
し、「大日を拝みましょう!」と呼びかけたのは有名な話だが、「愛」を「御大
切」、「パン」を「餅」、「悪魔」を「天狗」、「イチジク(無花果)」を「柿」と訳したりと、かなり苦労しているのである。

しかも著者が本書で指摘しているように、日本の「聖書用語」のほとんどが「中国語訳聖書」の移植であるという事実は、キリスト教も「仏教」や「儒教」同様、「中国経由のキリスト教」であることを意味しています。
「耶蘇(ヤソ)教」の「耶蘇」は、中国語の発音で「イエス」に似ているので使われたのであって、「耶蘇」の日本語意味で採用したのではなく、そのまま持ってきただけとか・・・・

「新しい葡萄酒には、新しい革袋に入れるものだ」(マタイ伝9章17節)のよう
に、本来翻訳と言う作業は、新しい言語(概念)に、新しい言語化(新概念付加の旧言語であっても)する作業である。
いままで使っていた概念の枠組を変換し、再構築する作業で、当然そこには「生みの苦しみ」があるはずです。
中国では、キリスト教の重要概念である「GOD」について大議論がおこり、「上
帝」「天主」「神」で数々の論を戦わせる中で、キリスト教論が展開されました。

しかし日本は、「仏教」もそうですがそんな根源的な議論を経る事をしないで、中国や朝鮮から「新しい革袋」を輸入して「新しい葡萄酒」を飲んでいる気になっているのです。(たまに「新しい日本酒」を生み出す人もいますが・・)

キリスト教と言えば、「神」と「愛」のことだと思っていたのに、その言葉すら輸入品で最近定着したばかりの言葉だとは・・・・
なんとも「目からウロコ」の本書です。(やはり、言ってしまいました。)

ゴータマ・ブッダ考/並川孝儀 大蔵出版

緻密な作業や持続的な積み上げが苦手な私は、本書のような丹念な仕事ぶりに触れるだけで尊敬してしまいます。
よく売れている「新書」のような三段跳び論法も嫌いではないのですが、気がつけば元の位置に立ったまま一歩も進んでいないとか、とんでもない所へ連れて行かれ、どこの次元をすっ飛ばしてしまったのだろう?と途方にくれたりもします。
その点、本書のような精緻な作業考証は、一歩一歩の足跡が明確で、安心して新地平を旅する事が出来ます。

聖書文献学の本を何年か前に読んだ事がありますが、仏教でも同様な文献学の検証が行われているのでしょう。
ブッダの歴史的な存在を考えるために、仏典や資料の言葉一つ一つの突合せを行い、最古層資料、古層資料、ブッダ生前、死後などの時間軸を見つめることで、今日伝
わっている仏教概念やブッダ伝承の修正を提議しています。

よく知られるように「ブッダ」という言葉は、本来「ブッダ」の固有名ではなく、普通名詞として「真理を覚った(人)」と使われていました。
しかし、「ブッダ(仏陀)」の存在が、「ブッダ」という言葉を大きく動かしてゆきます。

資料にあたりながら、普通名詞の「ブッダ」が固有名詞としての「ブッダ」に変化してゆき、それに伴って「ブッダ」の意味の再構築が行われてゆく様は、とても刺激的で、言語使用について考えさせられます。
単に普通名詞の「ブッダ(真理を覚った人)」が、偉大なる「ブッダ(仏陀)」に
なっただけではなくて、「仏陀」になったことで多数の特性が付加され「ブッダ」の概念自体が変化するのです。

同様に「涅槃」という言葉が、もともとは生きている時の煩悩滅却の境地を表すものだったのが、「ブッダ」の死を「般涅槃」(「般(pariー)(完全)」)と表現したことによって、「涅槃」に「死」の要素が入り込み、定型化してしまうのであ
る。

これは、「ブッダ」や「涅槃」だけのことではなく、言語が持っている性質でもあります。

同様に多数の文献・テキストにあたる時、そこで使われている言葉は、その時代使われていた概念で捉えてゆかないと間違ってしまうことになります。
漱石が使った言葉や吉田兼好が使う言葉は、現代の言葉と同じ表出ですが、中身は別物なんです。

本書で展開している「ブッダ」論「涅槃」論が、現在使われている言語への変化を考察している方向だとすると、「輪廻」論は、「輪廻」の言葉の変遷を逆に辿って、初期仏教における「輪廻」観、そして「ブッダ」自身の「輪廻」観を浮き彫りにしてゆきます。
そこに浮かび上がってきた「輪廻」は、驚くべくものでした。

「ブッダ」は、「輪廻」を否定的にとらえ、あくまでも「現世の在り方」に重きをおいているのです。
バラモン教や当時の一般常識としての「涅槃」に否定的、消極的な考えを示していた「ブッダ」ですが、「般涅槃」後、残った仏教者達が「仏教団」としての生き残りの必須として、当時の「輪廻」観を受容していったのです。

「輪廻」の呪縛すら否定し、乗り越える哲学を説いた「ブッダ」、その哲学を宗教にしてゆくアーナンダとその弟子達、「ブッダ」の子ども「ラーフラ」の名前の意味が「障碍」「悪魔ラーフのような者」である謎・・・・・

哲人「ブッダ」との、出会いの書です。
(2006年4月)