読みながら、感想文として紹介しようと決めましたが・・・・・
デビューしたての彼女の作品(徳さんの読書感想文2000年12月、2001年2月)を読んだ私の印象は、ネット上の言葉の比重を反映した「情報の不関連及び意味の無内容で」あり、「田口ランディという優れた巫女が、葉脈浮き出る言の葉に変えて伝えてきた」というものでした。
その後、私の中では彼女の沈黙が続き、久しぶりに目の前に現れた時、彼女が手にしていたのは、なんと「被爆のマリア」だったのです!
なぜ?なんで原爆?
正直、私は戦争の問題、原爆の問題、差別の問題などを「文学」として、どう表現したり、試みられなければいけないかが、分かりません。
いつまで経っても、「悲惨さ」と「正論」と「読む側がごめんなさいと感じさせる」枠組みに「息苦しさ」を感じてしまいます。
そう感じる私自身の問題もあるとは思いますが、ちょっと違っているのではないか、何か欠けているのではないかと思うのです。
本書には、4編の短篇小説が入っていますが、いずれも原爆に関連する作品です。
しかし、以前の「原爆」文学ではありません。
「」が付いた文学ではありません。
「原爆」や「戦争」や「差別」に考えるべき「問題」があるのなら、その問題は、この一瞬や私自身や犬の散歩やキャンドルサービスや仕事やお稲荷さんのキツネや痴話喧嘩や老人介護や高校野球やいじめや夕食やレンタルビデオ屋や時雨の中・・・・にあるべきだと思うのです。
本当の問題かどうか、知りません。
普遍的な問題かどうか、知りません。
人間の問題かどうか、知りません。
でも、そこに問題があるなら、この先1000年経っても、「イマージン」の歌が抵抗や希望として歌われなくなっても、地球を捨てて他の星に移住していても、日常の中に原爆の問題が横たわっているはずだと思うし、そのような見つめ方が必要な気がします。
そんな目線の実験作です。
(2006年8月)
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