ギフト西のはての年代記1/ル=グウィン 河出書房新書
夜の言葉/ル=グウィン 岩波書店
ファンタジーと言葉/ル=グウィン 岩波書店

巷では『ゲド戦記』(徳さんの読書感想文2003年5月、2004年6月)の映画化が、話題になっています。
原作への思い入れが強いと、どうしても辛口に映画を語ってしまうのですが、それは仕方ありません。
だって文字世界の方が、圧倒的に情報量(有意味、無意味、メッセージ、メタメッ
セージなども含めた情報)が多いだけではなく、自己イメージ、自己解釈など、共有化を必要としないで成り立っている固有な体験世界であるからです。

でも、いいじゃありませんか、小説が映画になろうと、映画がマンガになろうと、マンガが小説になろうと、それぞれの物語は、それぞれの物語で。
でも一つとして、それだけの単独物語だけで成り立っている物語なんて、ありゃしません。
みんな、似たような物語を隣りに持っていたり、内包している物語があったり、遠くの大きな物語の影響を受けたり、小さな物語がミトコンドリアのように入り込んで不可欠になっていたり、月や風や光が目に見えなくても私達の存在に決定的に影響を与えていたり・・・・物語も私達も・・・・

作品世界も私達も、多くの物語の干渉体なんです。

この作品について、話したいことは山ほどあるのですが、映画を観る前に原作を読む人も多いでしょうから(ではなんで、感想文なんか書いているのかということになってしまいますが)簡単にいくつか・・・・

ひょっとしたら彼女は、『ゲド戦記』のル=グウィンと言われるのに、納得していないのではないだろうか。
実際に『ゲド戦記』の世界軸は、4巻5巻で大きく揺らぎ、否定の大疑問符を彼女自身から投げ込まれています。
その疑問符は、この「西のはて」への大きな動機のような気がします。

まもなく80歳になろうかとするグウィンは、『西のはての年代記』をもって、『ゲド戦記』の看板外しの旅を始めたのです。

原題は「Gifts」と複数形なのでありますが、この複数形に深い意味があると思います。
次作は「Voices」「Powers」の複数形です。
「Gift」「Voice」「Power」は、単独でなく複数の・・・・・

この作品世界は、彼女からの極上のギフトです。

被爆のマリア/田口ランディ 文藝春秋

読みながら、感想文として紹介しようと決めましたが・・・・・

デビューしたての彼女の作品(徳さんの読書感想文2000年12月、2001年2月)を読んだ私の印象は、ネット上の言葉の比重を反映した「情報の不関連及び意味の無内容で」あり、「田口ランディという優れた巫女が、葉脈浮き出る言の葉に変えて伝えてきた」というものでした。

その後、私の中では彼女の沈黙が続き、久しぶりに目の前に現れた時、彼女が手にしていたのは、なんと「被爆のマリア」だったのです!

なぜ?なんで原爆?

正直、私は戦争の問題、原爆の問題、差別の問題などを「文学」として、どう表現したり、試みられなければいけないかが、分かりません。
いつまで経っても、「悲惨さ」と「正論」と「読む側がごめんなさいと感じさせる」枠組みに「息苦しさ」を感じてしまいます。
そう感じる私自身の問題もあるとは思いますが、ちょっと違っているのではないか、何か欠けているのではないかと思うのです。

本書には、4編の短篇小説が入っていますが、いずれも原爆に関連する作品です。
しかし、以前の「原爆」文学ではありません。
「」が付いた文学ではありません。

「原爆」や「戦争」や「差別」に考えるべき「問題」があるのなら、その問題は、この一瞬や私自身や犬の散歩やキャンドルサービスや仕事やお稲荷さんのキツネや痴話喧嘩や老人介護や高校野球やいじめや夕食やレンタルビデオ屋や時雨の中・・・・にあるべきだと思うのです。

本当の問題かどうか、知りません。
普遍的な問題かどうか、知りません。
人間の問題かどうか、知りません。

でも、そこに問題があるなら、この先1000年経っても、「イマージン」の歌が抵抗や希望として歌われなくなっても、地球を捨てて他の星に移住していても、日常の中に原爆の問題が横たわっているはずだと思うし、そのような見つめ方が必要な気がします。

そんな目線の実験作です。
(2006年8月)