どういうわけか、昔から「高齢者の性」の問題と「障害者のきょうだい」の問題が、気になって仕方がないのです。
「性」の重要性は、生殖と欲望だけの問題ではなく、人間形成や人間関係、精神や社会構造に深く関わる問題だと思うのです。
だから、「性」が語られない、または語ることを躊躇するような雰囲気で追い込まれた「高齢者」や「障害者」たちの「性」は、「なぜ」という面からも大いに語られるべきなのです。
なぜなら「なぜ」の中に、「性」のもう一つの面が隠されているはずだからです。
その面から解けば、今とは別の「高齢者」と「障害者」が立ち起こるはずですし、「性」を摘まんで、思いっきり引っ張れば、「私」も「人間」も、「社会」「高齢者」「障害者」も、そして「性」もぺろりと裏返ってしまうと思っています。
二十数年前、関西で障害者の作業所を運営していた時、「当人達」と「親」、そして「現実社会」と軋み音をあげながら関係を結んでゆきました。
それはまさに、否応なく結ばれて、だんだんと強化されていったのです。
関係が強固になると、その関係というか障害者との存在を「通してしか」世界が見えなくなります。
それは、当たり前のことだし、仕方ないことなのです。
はっきりさせておきたいのですが、目の前の障害者の問題は、この関係が結ばれ強化されるということではありません。
問題は、障害者を「通して見た世界」と、「一般通念の世界」との差異が大きく、「違った力学」で成り立っているということだと思います。
この差異を限りなく小さくし、同じ力学で世界が動くようにする事が、現在の障害者問題だと考えます。
理念的には、差異がなくなった時、「障害者問題」は無くなり、社会の瞬間的・空間的困難性の問題だけが残るはずです。
障害児(者)の「きょうだい」が生きている世界に、「障害児(者)」と「障害児
(者)を抱えた親」を取り除いて考えることはできません。
それは、障害があるなしに関係なく、「家族」として相互影響下にあるのが当然だからです。
ただ「きょうだい」が、障害児(者)との関係や親との関係で、「良い子」でなければいけないと思ったり、がまんしようと思ったりすることは、障害児(者)を「通して見た世界」特有の力学であって、「一般通念の世界」では当たり前にある、親に甘えたり、わがまま言ったりする気持ちが、抑圧されてはいけないと思うのです。
二十数年前の大きな後悔として、私は「きょうだい」達と向き合う事が出来ませんでした。
今私は、作業所に来ていた障害児(者)達よりも、「きょうだい」達がどう生きているのか、気になって仕方ないのです。
ちゃんと笑っていますか?
ちゃんと怒っていますか?
そして
ちゃんと泣いていますか?
(2006年11月)
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