大浴女水浴する女たち/鉄凝飯塚容・訳 中央公論社

日本文学に「物語」が無くなってしまって久しいのですが、世界にはまだまだきちんと紡がれているのだなと安心しました。
確かに「大物語」で「個」が語られることは、今更ちょっと難しいのは分かりますが、「身辺雑記」ばかりの中で語られる「無私」諦念には、いささかうんざりです。
匂いがない「すかしっ屁」ばかりで満たされても、嬉しくもなんともありません。
たまには、他人が鼻を摘まむほど、己の欲臭を吐き出して欲しいし、世界の眉をしかめさせてもらいたいものです。
作者は、40代後半の女流作家で、扉絵に載っている写真の射るような眼差しが、五臓六腑を腐らせた私を震え上がらせます。
でも、こんな震えは大歓迎です。
頭の中だけのピンボケ震えばかり「語られ」て、肉体の鳥肌には冷笑を浴びせられるだけでしたから。
中国の歴史や、社会や男女は、さすがに凄まじいものがありますが、外側を緩衝材で覆った日本人も結局は、歴史と社会と肉体で生かされているのです。
生かされ、生きる中で綴る「自分物語」は、匂いも音もある放屁で満たしたいものです。
(2007年1月)