「子ども」という概念は、昔からあったわけではなく、近年生まれた概念だと何かの本で読んだ事があります。
もちろん、その前も子ども達は実在しているわけですが、その前の「子ども」達は、何者だったのでしょう?
実は、彼・彼女達は、「小さな大人」だったのです。
だから庇護されたり、慈しみの対象であったりする「子ども」とは見なされず、あまり役に立たない労働者であったり、狭いところに入って作業できる「小さな大人」とみられていました。
今、私たちが常識と思っていたり、わざわざ知識や道徳観に照らし合わせて導き出さなくても、自然とそう感じている事柄って、人類の歴史や社会や文化を透して見えるフィルター像でしかないのです。
しかも、その常識の「像」として輪郭を持ち、言葉を得るまでには、靄のような無形の揺らめきだったり、言葉の衣をまとっていない無意識のシコリとして、むくむくとせり上がってきたり、引力を持った漆黒の狭間の向こうで見つめていたりしているのだと思います。
その無形の衆は、ある時(時代であったり、知識であったり、本人の気付きであったで・・)輪郭を持ち始め、その人の「世界」を作っている「像」の一つとなり、「その人の世界配置図」を塗り替えるのです。
人間は、開放系の情報収集・発信回路を持ち、取り込んだ情報を元に自己組織の解体と再構成を図り、さらに自己解体の情報を収集したり、フィードバックして情報自身に働きかけたりします。
この運動の主体は、もちろん個人ではありますが、外部情報の中には、国家であったり、文化であったりする共同体の意識の集積体が多数含まれています。
私達は、「共同体の意識」を食べながら、個体の自由意志を信じて、自己選択して、「共同体の意識」に変容の刺激を与え続けているのです。
逆立ちしてみて見ると、共同体は、「個人の意識」を食べ、共同体の自由意志を信じて、共同体として選択をして、「個人の意識」に変容の刺激を与え続けているので
す。
二元論で語る危険を棚上げしたまま、イメージし易い比喩で言えば、先に話した人間という生物種の情報と自己組織の関係も、人間の意識と肉体の関係も、同じような相互依存の循環関係であると思います。
確かにこの構図の中に、限界を読み取ることも出来るでしょうが、私は、常に変化してゆく「可能性」に満ちているように感じます。
人類の無意識のシコリが「像」を結べば、「世界の配置図」は変わり、「私の世界の配置図」も必ず変わります。
私の無意識のシコリが「像」を結べば、「私の世界の配置図」は変わり、「世界の配置図」も必ず変わります。
ずっと宿題にしてきた私の「像」を、少しずつ実線にしてゆく試みを、始めてみようと思っているのです。
(2007年2月)
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