新世紀エヴァンゲリオン

社会現象を生んだと話題になったアニメで、前々から一度キチンと観たいと思っていました。
今回マニアのお客さんに頼んで、TV版全26話、関連ビデオ4本、謎解き、解説本他十数冊を読破しました。

第一印象で言えば、おもしろいが新しい思想は無いな、というところでしょうか。
映像の斬新さで言えば、押井守の『攻殻機動隊』の方が良いし、感性では、宮崎駿の方が断然良いです。
では、なぜ今、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』なのか。

一言で言って、「情報」の使い方と量の多さだろうと思います。
まさに、それが「現代性」を獲得しているのです。

「物語」としての整合性や完結性の無視も、単なる1つの情報の在り方として提出しているし、宗教的記号も「主人公」という記号も、パロディもストーリーもそして
「母性」も、「情報」の1つであることにおいては「等価」です。

「本当は」「実は」という罠にはまって「秘められている記号探し」を楽しんでも構いませんが、そんなところに「本当」なんかありません。
(と、「本当」のように語っているので、これは「間違い」かと言うと、「本当」もありませんので、「間違い」も原理的には、ないのです。)
こんな構図が、「本当」がいかにもあるように煽り立て、経済活動や共同体を作らせる現代をよく現していると思いますし、「本当の私」なんぞを信じている、信じたい人には、たまらない「本当の王国」になるのです。

それらを織りなして表現する製作者側の「意図」も、どうでもよい記号と同じ意味しか持ちません。
よって、作者や読者やテキストなどの優位性も失われ、ふんだんにある材料から勝手に、自分の物語を紡げば良いのです。
「自分だけの物語」を読んで、「自分だけの王様」になれば、いいのです。

それを語り始めたら、君はもう危ない。
(そう書いている私は、もうダメです。)
この混濁とした「情報の海」に、一緒に泳ぎ出ましょう。

ほら、満足そうな笑みを浮かべた「溺死者」達が、手招きしています。
(1997年3月感想文より)

家族シネマ/柳美里 講談社
海峡の光/辻仁成 新潮社

本年芥川賞の2作です。
それぞれの作品について思うことはあるのですが、印象からの感想だけで止めておきたいと思います。

柳は、単行本化されている『フルハウス』『消える』の方が、はるかに良い出来だと思います。
辻の方は、「文学」という幻想を追う人々が、今の文学状況に苛立ちを覚え、あると信
じている「文学的頂き」に向って歩みを進めたいという、暗いルサンチマンが滲出していて、やり切れない気になりました。

ただ両者とも、自閉しその中で自足する人達に対して、「そこから出ておいでよ、
こっちの水は甘いよ」と呼びかける「倫理」は、もはやこちら側には「何もなく」あるのは「自己満足的な強要」だけである、と言う「現在」は、よく見えていると思います。

「夏休みには父が運転する車でキャンプに行き、かならず路に迷った。
母がいくらいっても父は引き返そうとせず、皆が怯えれば怯えるほど猛スピードを出した。
パパは逃げ馬なんだ、と父がいうと、私たち兄弟で声を揃えて、パパは逃げ馬だ!と叫ばなければならなかった」
(『家族のキネマ』からの一節)
(2007年8月)