社会現象を生んだと話題になったアニメで、前々から一度キチンと観たいと思っていました。
今回マニアのお客さんに頼んで、TV版全26話、関連ビデオ4本、謎解き、解説本他十数冊を読破しました。
第一印象で言えば、おもしろいが新しい思想は無いな、というところでしょうか。
映像の斬新さで言えば、押井守の『攻殻機動隊』の方が良いし、感性では、宮崎駿の方が断然良いです。
では、なぜ今、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』なのか。
一言で言って、「情報」の使い方と量の多さだろうと思います。
まさに、それが「現代性」を獲得しているのです。
「物語」としての整合性や完結性の無視も、単なる1つの情報の在り方として提出しているし、宗教的記号も「主人公」という記号も、パロディもストーリーもそして
「母性」も、「情報」の1つであることにおいては「等価」です。
「本当は」「実は」という罠にはまって「秘められている記号探し」を楽しんでも構いませんが、そんなところに「本当」なんかありません。
(と、「本当」のように語っているので、これは「間違い」かと言うと、「本当」もありませんので、「間違い」も原理的には、ないのです。)
こんな構図が、「本当」がいかにもあるように煽り立て、経済活動や共同体を作らせる現代をよく現していると思いますし、「本当の私」なんぞを信じている、信じたい人には、たまらない「本当の王国」になるのです。
それらを織りなして表現する製作者側の「意図」も、どうでもよい記号と同じ意味しか持ちません。
よって、作者や読者やテキストなどの優位性も失われ、ふんだんにある材料から勝手に、自分の物語を紡げば良いのです。
「自分だけの物語」を読んで、「自分だけの王様」になれば、いいのです。
それを語り始めたら、君はもう危ない。
(そう書いている私は、もうダメです。)
この混濁とした「情報の海」に、一緒に泳ぎ出ましょう。
ほら、満足そうな笑みを浮かべた「溺死者」達が、手招きしています。
(1997年3月感想文より)
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