いままで「死」について書かれたものなどを読むと、
「う〜む、なるほど」・・・・・でも・・・・
と考えていました。
そして、私がその様に考えてしまうのは、何故なんだろう?と、考えていたのです。
「死」の概念の一般的な範疇は、理念としての「死」と、具体的で、かつ固有な
「死」との間にあります。
「誰でも必ず死ぬ。」という普遍性と、誰かとは決して置き換えられないという固有性・・・
ほら、出てきた!この普遍と固有の問題。
これが出てくると、「怪しいぞ〜、どこかで間違ったんだ!」と、思うことにしています。
人は、難しい問題に突き当ると、なかなか「解りません」とは言えずに
「この問題は、ある面では普遍的な意味を含み、そしてある面では・・・・」
と言ってきたのだと、考えています。
では、「死」とは何か。
俺の死、親しき人の死、ホモ・サピエンスの死、星の死・・・・
私は、現時点では、死の統一的理念はわかりません。
ただ、この個別のそれぞれの死を、「混乱することなく、きちんと分け、慎重に考える」というのが、唯一言えることだと思っています。
例えば現在、ほとんどの人が病院で死を迎えます。
言葉を返せば、医療の現場で「現代の死」が決定、成立させられているのです。
そんな中、「死の問題」が、「医療の具体的な問題」に見えてしまう時があります。尊厳死とか延命処置とか、「どのような身体」で「生きている生活空間」を選び、
「どんな生命の質」で死期を迎えたいと本人が望んでいるのかとか・・・・
「死」と「医療」は、本来は違う問題として考えなければならないし、それぞれの相互関係を、冷静に計らなければならないと考えています。
現代の死についてもう一つ、阪神大震災の時、あれ程多くの人が亡くなったのに、
「死体」は、情報の中にありませんでした。
唯一の例外は、抱き合うように死んでいた「中国人留学生カップル」の写真だったということです。
これって、どういうことなのでしょうか?
なぜ、彼らの「死体」は、「死体」ではなかったのでしょうか?
我々は、何処に立ちすくんでいるのでしょうか?
(2008年1月)
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