「生真面目な心臓」(1997年2月感想文より)/永井明 角川書店

以前から気になっていたのです。
移植された人にとって、自分の身体イメージの内に他者がいるというのは、どういうことなんだろうって。

この本はフィクションに飾られてるが故に読み易く、あっ、こんな感じかなと想像しやすくなっています。
だから、その後に反転させて「イメージし易さの部分」を切り捨てると、移植アイデンティティの問題が立ち表れてくるのかな、と。

網膜が他者の網膜なら、見ているのは誰?
心臓が他者なら、俺って生きてるの?
世界情報に洗脳されている僕は、僕だろうか・・・・。

「癒しとしての死の哲学」(1997年2月感想文より)/小浜逸郎 王国社

いままで「死」について書かれたものなどを読むと、
「う〜む、なるほど」・・・・・でも・・・・
と考えていました。
そして、私がその様に考えてしまうのは、何故なんだろう?と、考えていたのです。
「死」の概念の一般的な範疇は、理念としての「死」と、具体的で、かつ固有な
「死」との間にあります。
「誰でも必ず死ぬ。」という普遍性と、誰かとは決して置き換えられないという固有性・・・

ほら、出てきた!この普遍と固有の問題。
これが出てくると、「怪しいぞ〜、どこかで間違ったんだ!」と、思うことにしています。

人は、難しい問題に突き当ると、なかなか「解りません」とは言えずに
「この問題は、ある面では普遍的な意味を含み、そしてある面では・・・・」
と言ってきたのだと、考えています。

では、「死」とは何か。
俺の死、親しき人の死、ホモ・サピエンスの死、星の死・・・・

私は、現時点では、死の統一的理念はわかりません。
ただ、この個別のそれぞれの死を、「混乱することなく、きちんと分け、慎重に考える」というのが、唯一言えることだと思っています。

例えば現在、ほとんどの人が病院で死を迎えます。
言葉を返せば、医療の現場で「現代の死」が決定、成立させられているのです。

そんな中、「死の問題」が、「医療の具体的な問題」に見えてしまう時があります。尊厳死とか延命処置とか、「どのような身体」で「生きている生活空間」を選び、
「どんな生命の質」で死期を迎えたいと本人が望んでいるのかとか・・・・
「死」と「医療」は、本来は違う問題として考えなければならないし、それぞれの相互関係を、冷静に計らなければならないと考えています。

現代の死についてもう一つ、阪神大震災の時、あれ程多くの人が亡くなったのに、
「死体」は、情報の中にありませんでした。
唯一の例外は、抱き合うように死んでいた「中国人留学生カップル」の写真だったということです。
これって、どういうことなのでしょうか?
なぜ、彼らの「死体」は、「死体」ではなかったのでしょうか?

我々は、何処に立ちすくんでいるのでしょうか?
(2008年1月)