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本を読み続ける店主が記録した「読書感想文」です。これから本を読みたい人の参考になればと思います。店主は現在修行中につき、気まぐれでアップされます。申し訳ない。

店主のつぶやき「日頃の常」

店主が語る人生のつぶやき集。人生の流れを店主の観測点を変えて表現しています。あなたのカンフル剤として読んでみませんか?

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「とりあえず、隠居出家」

ここ数年、感じていることがあります。

ネット社会による生活基盤の変化、国家や社会も含めた共同体への距離感の混乱、自己や他者に対する希薄感、言い知れぬ不安感が支配して、生き辛さが前提となっている世界・・・・

正直に言って、今の社会が持っている知識や言葉で、現代の変化を総合的に説明することは出来ないように思います。
どんなに言葉を尽くしても、表層的で局部的な箇所にうっすらと傷跡を残すだけで、翌朝になれば痒みとともに消えてしまっている気がするのです。

何が原因で、どこに向かっているのか・・・・

多分、我々の言語的な意識世界より、ずっとずっと深い処が、大きく変わってきているのだと思います。
もっと言えば、無意識世界よりも下の階層で、生物種としての領域というぐらいの処が、変容してきた気がしているのです。

原理的には、その世界のことを「考え」たり「説明し」たり、できません。
なぜなら、「考える」という言語世界や意識世界を、その階層に持ってゆけないからです。

では、どうするのか?

分かりません。

でも、いくつかやってみようと思っていることは、あります。

間違ったら、やり直せばいい。
迷ったら、戻ってきたらいい。

言葉の世界で「沈黙」しているのではなく、言葉の「沈黙」している世界への放浪に出てみようと思っているのです。
(2008年12月)

「靴下」の話

家人
「なんで、左右別々の靴下を履くと?ちゃんと、揃っているのがあるでしょ。同じ靴下を履いてよ。」


「左右同じ靴下だったら、俺が履かなくても、いつか誰かに履いてもらえる可能性があるだろ。
でも、片一方しか残っていない靴下は、俺が今履いてあげないと、履いてもらえることないんじゃないかと思うんだ。
雑巾とか拭き物にするために取ってあるのは分かるけど、まだまだ靴下として履いてあげたいんだ。」

家人
「・・・・・せめて、五本指靴下とアメリカ国旗模様の靴下の組み合わせだけはやめて。似合わないよ。」


「やはり似合う、似合わないは、大切だよな。」
(2008年9月)

「屋久島有情」

たった一周130kmの円形の島に、九州高峰の?1〜?7までが揃い、1000m級の山が45以上もある「洋上のアルプス」は、初めから「人の世界」ではなかったのです。
毎年多くの遭難者を出し、苔の養分にしてしまう「山姫の世界」でした。

一人で朝五時のバスに乗り、往復10時間コースの登山を試みた時です。
順調に目的の縄文杉とその先の小屋に立ち、後は来た道を帰るだけだったのです。

このままブラブラと帰るのはもったいないなと、素人のおごりと過信が心をかすめ、地図上にある、もう1本のわき道へ足を向けたのでありました。
その道には、等高線が屋久杉の年輪のように密に詰まっていることを、確かめもせず・・・

コースを外れると、天気は一変し、日が翳ったかと思うと、小雨が降りだし、みるみるうちにガスが遠景を覆い隠し、雨はあざ笑うかのように本降りになってきました。
目の前の道は、急勾配の上下を繰り返し、気が付くと苔に覆われた原生林が支配する王国に迷い込んでいました。
足は震え始め、息は吸っても吐いても胸を焼くようです。

そう言えば、わき道に入ってから、誰とも出会っていません。
いや、そればかりか、人の気配さえ、全く感じられないのです。

数メートルおきに括りつけられたピンクのリボンが、「人の世」と繋がっていることを示していることが、唯一の支えです。
この道の先だけに、お前の命があるぞと・・・・

そして、ある沢に降りた時、ついにその「命」を見失ってしまいました。

数十歩進むと、必ずその先に見えていたリボンが、見つかりません。見えるものは、苔のマントで覆われた古木と岩、そして雫の煌きだけです。頭にかぶっていたカッパのフードを払い、じっと耳を澄ませても、雨音と沢を流れ落ちる水音が、重層に響いていて、どこかの深海に立ちすくんでいる錯覚に、襲われます。

今までも、何度かリボンが見つからない時があり、その度にじっと立ち止まり、全体が緑色のコケに覆われた中、人が歩いた跡は幾分か白くなっているはずと、目を細めたり、漠然と見回したりしていました。

また、リボンが見えなくなった場所を覚えていて、ちょっと歩いて道に確信が持てなければ、またその場所に戻るようにしていました。
そうやって道を見つけたり、リボンを見つけて、進んできたのです。

しかし、この沢に入ってからは、どうしても見つけられません。

知人が言っていました。

「救援のため何度も山に入ったが、遺体が見つけられたら良い方で、ほとんどは行方不明のままだ。小屋からトイレに行ったまま帰らないという人が、何人もいる。まして、途中で勝手にコース変更した登山者は、絶対見つからないな。」

「山で、道を見失ったら、どうしたらいいと?」

「上に上がれ!尾根には、登山道があるし、ガスが晴れて見渡せたら、自分の位置も分かり易いし、気持ちが落ち着いてくる。とにかく上を目指すんだ!
ほとんどの遭難者は、人里と水を求めて下に下にと下りてゆき、沢の行き止まりか、岩場で足を滑らせて動けなくなってしまうんだ。そうなったら、まず助からん。」

上か!
まだ体力のあるうちに上に上がろうと、対岸の岩の切れ間を探して、目を泳がせると・・・・

あった!

全体が深い緑色に沈む世界に、汚れたピンクが、いかにも「迷い者」のように張り付いています。

嗚呼、そうか!

お前は、「迷い者」を待っていたのか!

それなら、ここにいる!

もっと深く、深く迷うことを望む愚か者が、一人、ここにいる。
(2008年6月)

「筋肉痛は、「繋がっていたい」証拠なりしか」

はい!丁度、お時間となりました!

毎月1回の通信と感想文を書き始めたのが、1997年1月ですから、11年と3ヶ月続いたことになります。
よくもまあ、続いたものです。

とりあえず、継続の慣性(惰性)は、断ち切っておきたいと思います。

感想文でも、ブログでも、メールでも、何でもいいのですが、書くことの一番の効用は、「自己慰安」だと思っています。
私は、この「自己慰安」の為に、書き始めました。
それだけの為に、書いていたと言っても、過言ではありません。

しかし今、「慰め」で腹いっぱいになりました。
(腹いっぱいは、健康に良くないそうです。「少し腹減った」ぐらいが、よござんすな。)

今後は、近況報告やお願い事、1997年1月、2月の手書き感想文のデータアップなどのため、突然メールを出すと思いますので、その時は、よろしくお願いいたします。

もちろん、私の方へメールを頂くのは、全く問題ありませんし、待っておりますので、「絶縁のお仕置き」だけは、ご勘弁下さい。

春は、揺らめく風に「誘いの声」を聞き、弁当も持たずに走り出してしまうのです。

PS、20年ぶりに「自分の部屋」を持ち、めちゃくちゃ嬉しいです。
まさか、これほどまでとは・・・・
へへへへ・・・・
(2008年4月)

「樹幹仏頭は、ゾウの涙を見ることが出来るのか?」

タイの風は、思っていたほど湿っていなくて、さらさらと流れていました。

バンコクの喧騒もアユタヤ遺跡の佇まいも、違和感なく自然な風景として、私の胸に届いてきたのです。
もちろん有名な寺院の前には、身体障害者の物乞いもいましたし、薄暗い路地には妖しい眼光を宿した男がこちらを睨んでもいました。
派手な服に身を包んだ女性の嬌声が突然沸き起こったり、夜店の隅で男同士が胸倉をつかみ合っていたり、高架下のゴミ山で裸の子どもが痩せた犬と一緒に何かを食べていたりもしていました。
その一方で、道路には磨きこまれた高級車が何台も走り、バンコク市内は高層ビルが乱立し、レストランでは山盛りの食べ物が、箸もつけられずに鎮座していました。
それでも、景色としては、すんなりと受け入れられたのです。

家族は、行く先々で驚きの声を上げたり、恐る恐る覗き込んだりして、異国に立っている経験をそれなりに楽しんでいるようでした。
私も、タイに来たことなんて初めてなので、指をさしたり、カメラを向けたり・・・・

が、しかし、どこか今までの旅行とは、ちょっと違う気がしたのです。

何だろう?

タイの社会状況に日本が透けて見えるからか?
アジアの風景に懐かしさと安堵感を覚え、他国にいる気がしないからだろうか?
家族旅行だから、無謀な行動は慎もうと私が自己規制していたからか?
親が子どもを連れてゆくような家族旅行の形態はもはや成り立たず、それぞれが主張を持って選択するので足並みが揃わないからか?
休憩の時にお腹が痛くなるほど笑い合ったかと思えば、食事の時にせっかくだから食べてみろよと皿を押しやったり押し返されたり・・・・

家族が、今までのように共に過ごすのでなく、違う場所で生きるようになることへの感傷なのか?
何かを観たいとか、行ってみたいとかが目的の旅行ではなく、区切りとしての旅行なので、踏み込んで自分の興味の扉を開かなかったからだろうか?
今までの自分の旅では、例外なく早朝と深夜の徘徊をしていたのに、今回はホテルで早々に寝入ってしまったからか?
私が、旅人の感性と体力を、失ってしまったからだろうか?

何だろう?

そして、この旅行から帰ってきてから私は、無性に「次の旅」をしたくてたまらないのです。

私の「家族旅行」は、さらさらの風と共に、無事流れて行ったようです。
(2008年3月)

「減数分裂の後ろ髪」

私が学生の頃、ナンパする時にこう話しかけるのが一般的(?)だったと思います。
「ねぇ、お茶行かない?」

もちろん、相手への「想いの重症度」や自分のキャラ、状況によって様々なバリエーションはありましたが、基本的には喫茶店への誘い文句でした。

成功したこともあったし、断られることも多かったです。
なかなか言い出せなく、遠くから眺めているうちに、知らない男性と腕を組んで歩いている姿をキャンパス内で見かけ、一人下宿に帰って、焼酎を飲み始めたこともありました。

いえいえ、私の失恋話をしたい訳ではないのです。

実はその頃、この「お茶行かない?」は、深い意味があるのではないかと思っていたのです。
古来からそうなのか、現代の人達の誘い文句はなんて言うのか、全く分かりません
が、「食する場に同席して下さい」と願い出ることは、新しい関係を築く指標とし
て、真っ当なことのように思うのです。

私は密かに、「食事する」って、「神的なもの」(人間世界外への畏敬感情やアニミズム的な敬いと、包括安堵感を抱かせる無形の対象)との「交流儀式」なのではないかと考えているのです。
生命維持のための行為である、動物が食すると同じ位相の時代も、人類にはあったでしょう。
しかし、人類が社会性を獲得した頃に、食事のあり方と性行為のあり方が大きく変化したのではないかと思っています。

私は人類学者ではありませんので、そんな実証データがあるのか、同じような論文が出ているのか知りませんが、私自身の疑問の種がそんなところにあって、機会があれば関連する本を手に取って、ここの感想文(例えば1999年1月や2004年の12月感想文など)でも取り上げているのです。

いえいえ、私の独断人類学の話をしたい訳ではないのです。

「一緒に飯を食べる」って、思っている以上に重要な行為だと思います。
「同じ釜の飯を食った仲」「どうですか?これから、イッパイ行きますか!」「今度我が家に食事に来ませんか?」「冠婚葬祭の食事」「最後の晩餐」・・・・・

個人意識の領域に、他者が参加するには、一緒に食事をすることと、性行為をする事が、一番オーソドックスな形である気がします。
つまり、その日の意識化対象者のほとんどは、食物摂取と排泄に関わった人達、肉体の拡大空間を共有した人達です。
乱暴な単純化ですが、人類が意識世界の虜になり、大脳皮質を肥大化させた動物である限り、脳の好む「意識界の文体と傾向」に抗うことは、難しいからです。

いえいえ、私の脳世界談義の話をしたい訳ではないのです。

ただ「食する」のでなく、「食する事」が儀式に近い意味まで付加されているなら
ば、もっと大事に食事をしたいと思っているだけです。
一回一回を、大切に感じたいと思っているのです。
あの人とも、この人とも・・・・・

そして
一人から二人、二人から三人、三人から四人と増えてきた我が家の食卓は、四人から三人、三人から二人、二人から一人へと続く道を、歩み始めました。

大きな区切りに、賑やかだった食事の思い出が重なります。

「いただきま〜す!!」
(2008年2月)

「内出血の行方」

能天気に好きなことばかりをやっている私でも、その時その時の悩みは尽きず、触れると痛みが湧いてくる後悔が、山ほどあります。

なぜ今更、当たり前のことを持ち出すのかというと、このところ、私の中でも最大級の後悔の一つが、ことあるごとに炙り出されているからなのです。

その後悔とは、「私は受験をしてこなかった」ということです。

もちろん「高校受験」と「大学受験」というイベントは、人波に紛れて通過してきました。
そう、ただ周りの流れの中で、「通過した」ということでしかなかったのです。

それも、周りと同じように悩んだり、嫌々ながらでも取り組んだりしていれば、まだ救われたのでしょうが、わざとそんな流れに逆らうように、勉強しないでほかの事でその「受験の時間」を消費してしまおうと考えていたのです。

「こんな知識の暗記を強いられて、点数化された中で、俺を判断されてたまるか!」「高校や大学の格付けなんかより、自分自身で自分を深化させることだけが問題で、自分を向上させるものを外部に求めるなんて、甘えているだけだ。」
「どこに行っても、何があっても、自分にとって貴重な経験は必ずあるはずだ。ようは、自分がそれをその時、きちんと拾い上げる事が出来るかなんだと思う。だから高校や大学なんて、どこに行っても同じだ。」
「英単語一つ憶える時間があったら、小説を読んだり映画を観たり、音楽を聴いたりした方が、自分の感性や考えを深めるために役に立つはずだ!」・・・・・

完全な愚か者です。
恥ずかしい限りですが、その当時そんな考えで自分を甘やかし、楽な選択を自己弁護していたのです。
そして、今になって猛烈に後悔しています。

確かに受験が終わったら、一生使わない単語や公式もあるでしょう。
頭の中は彼女のことで一杯なのに、五段活用だとか「1192(いい国)つくろう鎌倉幕府」なんて、知ったことか!
映画を観ていたら、「プリーズ」なんてほとんど聞かないし、みんな「ファック
○○」の連発じゃないか・・・・

でも、そんなことは、それこそどうでもいいことでした。
そんなことは、社会に出てからも、家庭を持ってからも、姿形を変えながら次から次にと「不条理」は訪れてきたし、それに「取り組み続け」なければならないことでした。

もちろん、あの時自分が受験に向き合わなかった「後悔という経験」も、確かに得難い経験の一つになったと考えることも出来ます。
しかし、「後悔の経験」は少ない方がいいです。
100の反省は1つも残っていませんが、1つの後悔は、100年残りそうです。

しなければいけない時に、きちんとしておかなかった後悔は、取り返しがつきませ
ん。
無駄なことだとか、結果がどうだとかでなくて、自分が「自分の総体を、全力で投じる時間を経験する」ということは、とても大事なことだと思うのです。

そして、受験も仕事も、家族も育児も、介護も・・・・・
「今、しなければならない時」なのだと思います。
(2008年1月)

「暗夜行路の裸電球」

寒いっす。

急に冷えた痛いような寒さでなく、ジワジワと浸潤してきた寒さに支配されたよう
な、逃れようもない寒さが身を包んでいるような気がします。

私は、生まれが青森なのに、寒さが苦手です。
冬になると、身体も心もレベルダウンしたように、全て先送りの気持ちになって、
「暖かくなってから考えましょう!」と・・・・

友人は、
「あのジトジトした暑さより、空気が冷たくひんやりして、目が覚めるような寒さの方が好きだな〜」
と言いますが、私には全く理解できません。
「俺は、寒いのが苦手だなぁ」
と応えると、
「見りゃ分かるよ。店の中でダウン着て、ポケットに手を突っ込んだまま虚ろな目でぼ〜としているもんな。
ただいま冬眠中って顔で・・・・」

そう、冬眠しています。

もう、元気元気で動き回らなくてもいいでしょう。
身体を動かすのがおっくうな時、周りのテンションについて行けない時、何をやっても満たされた気持ちになれない時、一時的に冬眠したらいいんじゃないでしょうか。冬眠だって、生物の立派な環境対処法ですよ。
社会や時代が寒い時、無理に熱を出していると、一気に消耗してしまうような気がします。

コツコツと、やらなければいけないことを飽かずにやって、日々の中にささやかな喜びを見つけ、身近な人をちゃんと見つめ続けていたら、良いのだと思います。

大丈夫!
冬眠中であっても、ちゃんと「自分にとっての豊作」を、胸に抱いておれば、きっと春は訪れます。

だって、「私の豊作」と「あなたの豊作」が、春を呼ぶのですから。
(2007年12月)

「フッサールの背中は、存在していない?」

この前、常連の方から、

「こっちに引越してきて、ちょうど2年になるんじゃないですか?早いですね〜」
と、言われました。

そうか、もう2年になるのですね。

しかし、今だに昔のお客さんが飛び込んできて

「なんだぁ、こっちに引越していたとね。全然知らんやった。突然、店が無くなったから、やっぱりねぇ〜と、話していたとよ。」

「お久しぶりです。でも「やっぱり」は、ないでしょう〜「やっぱり」は・・・」

不思議に思うことがあるのです。

市場に買い物に行く時に、しょっちゅう店の前を通っていたのに、1年半気付かな
かったとか、夢屋の上のスナックに通っていたけど、全く知らなかったとか・・・・
前の店から歩いて27歩(!)たった27歩ですよ。
今朝、歩いて数えましたから、間違いありません。
たった27歩移動しただけで、人々の意識からすとんと落ちて、完全に見えなくなってしまっているのです。

これって、なんなんでしょう。

店の存在感が希薄なのでしょうか?
小さな古本屋なんて、一般の人からはみたら、「店」のうちに入らないのでしょうか?
それとも、無意識の領域が、「見てはいけない。あの店主は危険だぞ!」と警笛を鳴らしてあげているのでしょうか?
風水の向きか?前世の行いか?タバコをやめた害か?・・・・

商売としては、確かにゆゆしき問題なのですが、なんか「時空の狭間」に落ち込んでいるような愉快な気持ちで、気に入っているのです。

「見えているのに、見えません。」

いいですね〜
(2007年11月)

「人類ポカン計画」

ふっと、思い浮かんで、ほうと感心して、誰かに伝えようと思っているのですが、知らぬうちに、すっかり忘れてしまいます。

思い浮かんだ内容は、忘れてしまうのですが、この忘れてしまうサイクルだけは憶えています。

あ〜この前、なんか心動いて・・・・なんだったかな〜・・・その前にも、同じように何かを思いついてニヤリとしたけど・・・・

初めは、「どうもこの頃、忘れっぽくなったな。年なのかな〜」と思っていたのです。
しかし、よく考えてみると、昔の自分が、物覚えが良かったわけでもないし、次々とアイデアが出てきて不言実行!(無謀実行は、ありましたが)というわけでは、もちろんありませんでした。

思えば、昔から、ふっと浮かんでは、すっと消えるサイクルを、数限りなく過ごしていたのです。

名前や単語が出てこないのは、もういいのです。
忘れてしまっても、思い出せなくても、なんだか全然「惜しく」ありません。
「ダメ、思い出せん!忘れたばい」
で、終りです。

ただ、家路につきながら空を見上げた時に、ふっと思い浮かんだあの・・・・あれとか、店の棚をぼうと眺めながら漏れ出てきた・・・・それとか、昔のことを思い浮かべて、あぁ・・・・とか。

今では、何のことだったのか、全く思い出せないのですが、懐かしいというか、温かいというか、親しいというか、気持ちの「揺らめき」だけは残っているのです。

正直に言うと、記憶の壺には、この「心の残響」だけが増えてきていて、「言の葉」達は、少数になってきているように感じています。

知人に話すと
「そりゃ、老化よ、老化!だいたいワイは、老けすぎばい。見た目がじいさんのようになってきただけでなく、頭も呆けてきたんじゃなかか?気をつけんば!」

なるほど、そうなのかもしれません。
自分でも、そんなところが一番現実的のような気がします。

しかし、しかしです。
私も、だてに「お気楽な夢想家」と呼ばれているわけではありません。
どんなことでも、どこからでも自分に都合のいいような「へ理屈」をつけ、現実をのらりくらりと渡ってゆく所存であります。

「ふっと、思い浮かんで、ほうと感心して、誰かに伝えようと思っているのですが、知らぬうちに、すっかり忘れてしまいます。」

これって、心が豊かになって、小さなことでも感受する素敵な・・・ちょっと自己愛過ぎるか。
言葉や知識の世界から解き放たれて新しい境地に・・・・恥ずかしいほど自己中。
伝えるほどの意味を持たない考えが、自らの経験知として自然消滅を・・・・いっそのこと、この考えが自然消滅して欲しい。
気の流れに身を任せ、スピリチュアルエネルギーを保存しながら・・・・少なくともこの考えに組みしないぐらいの自己対称視座は持ち得ているつもりだ。

・・・忘れよう。
・・・・ほっとけば、忘れるさ。
・・いつものことじゃないか。気にするな。

何を書こうとして、この文章を始めたんだっけ・・・・
ふっと、思い浮かんで、ほうと感心したんだけどな・・・・・
(2007年10月)

「堪え性のない十七年蝉」

どうもこの頃、「自分の言葉」が、しっくりきません。

自分の考えや意見であることは、間違いないのですが、心の隅に違和感の残影を感じるのです。
慌てて「その隅」を覗き込んでも、すでにそこには何もなくて、どんな影だったのかすら、思い出すことも出来ません。
微かに「それで本当に良いのか?」という声が聞こえる「気がする」のです。

加齢のせいかもしれません。
家族を作ってしまった傷かもしれません。
時代のすさびが、シミのように無意識層を覆ってきているからかもしれません。
身体の錆び付きから発せられる内臓言語の方が、声高になってきているからかもしれません。
言葉にならない領域への親和性が、大きくなってきているからかもしれません。

しかし、気持ち的には、嫌なわけではないのです。
今はこのまま、慌ててその気配に言葉を与えて「答え」にしたくないのです。

しばらくは、大事に視野内の違和感を育ててゆきたいと思っているこの頃です。
(2007年9月)

「風の軌跡」

自転車で(!!)東京から関西を抜け、四国を一周し、九州を走り抜け長崎へやってきた甥っ子Yは、含羞の笑顔で立っていました。

「お久しぶりっす。」

チクショー!カッコ良すぎるぜ!

草むらや地下通路の階段、スーパー裏の駐輪場や釣具屋の軒下、高架の下やら自販機の前で野宿をし、猛暑の中を走って火照った身体は公園の水で鎮め、それが風呂代わり。(風呂に入ったのは、道後温泉と九州に入ってからの2回だけ)

チクショー!カッコ良すぎるぜ!

史上最高の気温を記録した今年、熱中症で人々がバタバタと倒れた夏に、タイヤが溶けるような道を、陽炎が揺らめく先だけを見つめて、ただひたすらペダルを漕ぎ続
け、自分が育った家を見る為に、東京からやってきたのです。

チクショー!カッコ良すぎるぜ!

走り始めてすぐに、脚よりも手の平が腫れはじめ、痛くてしかたなかったそうです。自転車のハンドルに、雑巾をぐるぐる巻き付け対処をするが、痛みは治まらず。
「前傾姿勢で」「鉄の棒の上に腕立て伏せ状態を維持する感じだから」と話し、「これでも、だいぶ腫れが引いたんですよ」と言って見せた手の平は、肉厚に赤味を帯びたまま自信に輝いていました。

チクショー!カッコ良すぎるぜ!

暗い山道に怯え、突然のクラクションに驚かされ、寂しさに襲われ、雨中の寒さに震え、なめていたことに身をつまされた。
旅先で多くの人達から声を掛けられ、同じ旅人とも言葉を交わし、新聞配達のおば
ちゃんは、自分にも大学生の娘がいるから気になると「母親にはちゃんと連絡してるか?」
そう、妹からミサンガをもらい、母の心配を知った。

Yよ。

遠くに行きなさい。もっと遠くに。

旅をした君なら分かるはずです。
この「遠く」という意味が。

遠くに行きなさい。もっと遠くに。

君の遠い旅に、乾杯!!
(2007年8月)

「最重要貴重品拾得物」

「去年の」今頃、私はガン患者でした。

(と、思っていました。)
数年前から年に一度は、健康診断を受けるようにしています。
その頃から、急に体重が減ったり、慢性の疲労感を抱えていたり、どうも体調がイマイチの状態が続いていたのです。
私自身の見立てでは、若い時の「暴飲」がたたり(「暴食」出来るほど、お金は持っていませんでした。)かなり肝臓が弱ってきているのだろうと、軽く考えていたのです。
が・・・・・

血液検査の結果は、かんばしくなく、どうも血液のバランスが悪いらしいです。
普通だと、ある数値が悪くなると、それに関連するところも異常値を示すのですが、それはなく、関係がない中性脂肪値が正常値の「倍以上」の数字を示していたりと、妙にチグハグらしいです。(もちろん「高脂血症」の診断は、頂きました。)

肝臓のエコーを取ると、テカテカに光り、完全に「脂肪肝」になっていて、お医者さんから「このままだと、脂肪肝から肝硬変になるか、肝臓がんになってしまいますよ!」と叱られてしまいました。

が、そんな会話も、胸部X線画像フィルムを袋から取り出して、あの光ったスクリーンに差し込むまでで・・・・

お医者さんは、画像を観るなり顔を曇らせて、

「以前に肋骨を三本折られた事がありますか?」

「はい。家族でキャンプに行って、山道で足を滑らせ、背中から落ちてしまいました。その晩に救急病院に担ぎ込まれ、その折れた骨が肺を破って肺気胸になっていて、チューブを肺に入れる処置をしてもらいました。」

「うむ。その折れた肋骨はこの三本で、それらは補強された形で治っています。問題は、その上の「白い影」なのです。」

「この外から光が差し込んでいるような影でしょうか?」

「はい。三原さんが観ても分かると思いますが、この部分だけ不自然に肺の輪郭を崩しているでしょう。一度胸部CTかMRIを撮って調べた方が良いと思います。」

「分かりました。お願いします。」

「正直な話、急がれた方が良いと思います。今日はお時間ありますか?」

「えっ、まあ・・・」

すると、お医者さんは、すぐ横の看護士に

「撮影室が開いているか確認とって!今すぐ、胸部CTを撮りたいからって!」

看護士は、弾けたように部屋を走り出てゆきました。

私は、ただ検査結果を聞くだけだと思っていたので、短パンにTシャツ一枚の格好で、お金はほとんど持ってきていなかったのです。

「あの〜、今から胸部CTって・・・・お金がかかるのでしょうか?」

「三原さん、胸部CTは保険がききますし、次回持ってきてもらうので、全く構いません。命があれば、いくらでもお金は払えますよ!命があれば!」

・・・・私は、ようやく自分が置かれている状況が、飲み込めました。

それから数週間、検査結果が出るまで、子ども達には内緒にしておこうと家人と決
め、自然に振舞うように努めました。
結果がでる数日前の日曜日、ドライブがてら家族で近くの温泉に行こうと、家人が提案すると、娘が

「これって、「思い出旅行」?お父さんとお母さん、それでも隠しているつもり?検査・結果が出たら、ちゃんと話してよ!」

バレバレでした。


そして、「今年の」健診結果の日

「三原さん、去年に引き続き、今年も撮ってもらった胸部CTですが、肺の境界とその外側に激しい炎症跡が見られます。しかし、大きくなってきていないようなので、様子見ということにしましょう。体調がおかしくなったら、すぐに来てください。それに、来年の健診も、X線撮影を飛ばして、直接胸部CTを撮ってください。」

「はい、ありがとうございました。失礼します。」

「ちょっと待って下さい。今年はですね、胃が・・・・・・胃カメラで観ながら、細胞組織を採って、良性か悪性か調べてみましょう。」

「えっ、今度は胃ですか?」

・・・・・・・・・・

そして今、「来年の」健診は、胸部CTと胃カメラを義務付けられた「要観察患者」です。

それでも、充分ありがたいです。

いや、本当に、よかった。よかった。
(2007年7月)

「開放系のエントロピー増大則」

身体が、どんどん歪(ゆが)んで、捩(ねじ)れて、傾いています。

先日テレビで、プリマドンナの吉田都さんが「生きてゆくということは、身体がゆがんでゆくということですから。」とおっしゃられていて、えらく納得してしまいました。

すぐさま家族に
「そうばい!右利きなら、右利き中心の身体の動きを積み重ねるから、自然とその動きが特化して、身体がその動きをし易いように、傾いたり、太くなったりして、非対称化してゆくとばい。」

「はぁ?」

「だからぁ、赤ちゃんの時は、身体の経験データが少ないから、神経系の発達も対称的に軸索を伸ばしているのだろうけど、長く生きることで、その人自身の固有の環境や経験がベースになって、身体の構造変化が起こり、アンバランスになってゆくと
よ。」

「よく解らないけど、お父さんが、年々「偏屈」になって、見た目や行動が「奇人変人化」していくという事?」

「いや、それとは、ちょっと違うと思うけど・・・・原理は、同じかもしれん・・
・」

「昔は、その時の流行にも興味が向いていたけど、この頃は突然変なテーマにとりつかれて、山ほどの本や資料を図書館から取り寄せること?
それとも、世の中の「常識的な親」の振る舞いはしないくせに、突然息子の学校に退学届けを提出しに行ったりすること?」

「いや、まぁ、あの時は・・・勘違いしたというか・・・失敗したというか・・・そういうことではなくて、カラダのことをだな・・・
性格や振る舞いも、確かに年々強化されてゆくのだろうけど、今回はカラダの歪みが、自然のことであって、老化防止は意識的に個々の歪み矯正が有効ではないかと・・・・」

「カラダの見た目は、どうでもよかとよ。問題は、性根よ、性根!」

家族にとっては、性根が、どんどん歪(ゆが)んで、捩(ねじ)れて、傾いてゆく方が問題のようです。

でも、それが自然な方向なら・・・・
(2007年6月)

「結界という名のテーブル」

二十数年前に住んでいた場所は、ただ風が吹きぬけるだけの空間でした。

家は建っています。
しかし、私が住んでいた部屋だけが、ざっくりと切り取られたように、何もなくなっているのです。
その奇妙さだけが、あったかもしれない痕跡をかろうじて匂わせていますが、気のせいだと言われると、頷くしかありません。

突然、木立に留まっていたカラスが、「ハーハーハー」と笑い声を上げ、

「やっと戻ってきたのか!どうだ人間社会の居心地は?
おっと、俺様に講釈なんて止めとけよ。まだまだ、三千年早いぜ!」

漆黒のカラスは、それだけ言うと、ばさりと羽を広げ、たった二かきで視界から消えて行きました。

そうだ、私は多くの女郎達が眠る、無縁仏の園に帰ってきたのだ。

かつて私は、お墓の真ん中にある地蔵堂に住み、確かにこのお地蔵さんと共に飯を食べ、ここで眠り、湯煙の空を眺めていた。
心を沈める場所が見つからず、白濁した湯で身体を煮込み、民族音楽の調べに意識をただ揺すっていたのだ。

そうだった、思い出してきたぞ。

生者の街には住み辛く、誘われるままに死者の舘に潜り込み、獣の住む山に登っては、土に手を突っ込んで麦畑を作っていたのだ。
カラスが言うように、ここが「戻るべき場所」だとは思わないが、現前の世界に馴染めなかった私は、この異界が垣間見える世界に、一度住む必要があった気がする。

あぁ、心地良かったなぁ。

永遠に続くのではないかと思っていた草取りの労働、完黙の修道女達との交流、熱心に存在エネルギーを語る人を前に、急激に醒めてゆく自分の心の手触り、これでもか、これでもかと湯呆けさせても残る彼女の幻影、無責任の甘味を口に放り込み、ディオゲネスの樽から社会を揶揄しては悦に入っていた・・・・

あぁ、心地良かったなぁ。

対称的にふかれていたはずの瓦は、片方だけに緩やかな曲線を残し、天上の棟部は不自然な距離のまま、中空からすとんと安っぽいトタンの壁になっている。
墓守としてあてがわれた部屋は、私の記憶だけを残して、完全に消え失せているのだ。

まあ、良かろう。
今もうっすらと笑みを浮かべているお地蔵さんと、傾いて雑草に埋もれている小さな墓石だけがあったのだと言えば、それはそれで足るのかもしれない。
悠久の時間や流転の存在に、手を合わせる心の火が灯れば、それが仏心なのだと・・・・・

おい!おい!ちょっと待て!
そんな簡単に悟らされてたまるものか!
そこに隠れて覗き見しているカラスよ、こっちに出て来て、俺の話に付き合え!

この「失せて現れた空間」は、「かつて存在していた者への供物」なのか?
それとも「かつてを語る者への誘眠剤」なのか?

そう!二十年やそこらで変わりたくもないし、変わらんぞ。
残念だったな。
お蔭様で、私はまだ、「さ迷って」おるのです。
(2007年5月)

「午後の栄光」

誕生日を迎え、家族で食事している時に、
「お父さんは、何歳になったと?」と聞かれ、
思わず(!)
「27歳になりました。まだまだ尻の青い若輩者ですので、よろしくお願いいたします。」
と答えると
「人は、年をとると、なぜそうやって二十何歳と言うのだろうね。お父さんも年取ったんだね。」
と言われてしまいました。

笑って誤魔化しましたが、確かに一理あると思った次第です。

急に問われた時、もちろんウケを狙った気持ちもありましたが、二十何歳の必要は、本来ない筈です。
「五歳でちゅう!」でも「14歳!少年期脱皮の危険な年頃です。」でも良かった
し、もちろん「良識がしっくり身に付いてきた56歳です。」でも「少々のことでは動じない気持ちになってきて、これが達観の境地かと感じ入る88歳じゃ!」でも良かったのです。

なぜ二十代と答えてしまったのか?

頭では、それぞれの年代の価値を平等に考えてきたり、訴えたりしていますが、本心のところでは、二十代が一番良い(良かった)時期だと、感じているのだと思いま
す。

しかしよく考えてみますと、体力的には部活で身体を鍛え上げていた高校時代でしょうし、知識や思考力ではもっと後の三十代・四十代の方が、バランスが取れていた気がします。
二十代の自分を思い返すと、無謀な行動を重ね、自信過剰で、他者に対しても傲慢な態度だったと、恥ずかしくなってしまいます。

ただ、思い返すと、高校時代から二十代後半までのたった10年は、何をしても「自分銭の貯金」になっていた時期で、それ以降はその自分銭を引き出したり、自分銭を投資・換金して、新たな活動資金にしたりしているだけだった気がします。

このことだけは、絶対的な力があった時期で、愚かであろうが、失敗の連続だろう
が、取り返しのつかない分岐点であろうが、「自分銭の貯金」時期であったのです。そんな想いは、確かに私の中にあって、それが二十代を口走った一番素直な理由のような気がします。
山ほどの後悔と、山ほどの思い出が詰まっているのです。

「二十何歳です」と言うことは、もちろんその頃への憧れや願望、追憶などがあったでしょうが、冗談ネタにする位には、その二十代の吸引力から脱して、離れて見れるようになったのだという気もします。
私の奥底で、新しい重力源を築く時期が来たことを、「無意識層の民」が教えてくれているのかもしれません。

「また、山ほどの後悔と、山ほどの思い出を作ろうぜ!」と・・・・・
(2007年4月)

「オレが、ずっとそばにおっちゃるけん!」

昼メロに、心を奪われてしまいました。

録画予約をかけて、家に帰ると、何をさておいてもTVのスイッチを入れ、画面に「愛の劇場」という伝統的時間枠看板を映し出します。
すぐに流れる子ども時代の二人(杏と大悟)・・・・涙、笑顔、別れ・・・たまりません!

この番組は、平日昼の1時から放映されている『砂時計』(全60回)で、少女コミックが原作のバリバリ、コテコテの純愛ものです。
私は、この手のドラマに目がなくて、家人からバカにされながらも、番組編成時期にはテレビ雑誌を買ってきて、数番組をピックアップしては、初回から数回見て、最終的には2・3番組に絞り込みます。

正直言って、かなり真剣です。
気合も入っていますし、自分なりの水準や理論もあります。
一講釈も二講釈も、話すことができます。

が、家人と子ども達に言わせると、ただの「純愛ドラマ依存症」だそうです。

う〜む。その指摘は、正しい気が・・・・

同じ時間枠で放映されていた田中美佐子の『愛の嵐』も、欠かさず観ていました。
その後の高木美保の『華の嵐』も・・・『冬ソナ』も・・・・・
純愛とはちょっと違うけど、『北の国から』や『ツイン・ピークス』も、気持ちがかなり入っていました。
話題になった『24』も、レンタル屋に足繁く通いました。
今だに観続けている「ER」は、レンタルではなく第1シリーズからリアルに観ています。(この前の土曜日に第10シリーズが終了して、寂しさを隠せません。)

ドラマオタクなんだろうか?
そうかもなぁ〜。

まあ、オタクでも依存症でも、なんでもよかばい!
杏(アン)と大悟(ダイゴ)が、結ばれるなら・・・・結ばれるよね?・・・頼むぜ・・・
と、思考がすぐに『砂時計』に流れてしまうのであります。

さて、今日も早く帰ろっと!
(2007年3月)

「投皮マッサージ」

「土になれ〜」
「ちゃんと分解してもらうんだぞ!」

今日も私は、大声でミカンの皮を、庭に投げてきました。

家人からは、「わざわざ声を出さんでもいい」と言われているのですが、なんだか声を出さないで投げると、ただゴミを庭に放っているような気がして、嫌なんです。

他人から見ると、声を出そうが出すまいが、果物の皮やら卵の殻を窓から放っているのですから、十分奇妙で怪しい行為に見えることでしょう。

登校中の子ども達が、私を指差して笑っています。
笑いながら手を上げて挨拶すると、彼らは、おびえた顔をして全速力で駆け去ってしまいました。

家人が精魂込めて作っている小さな庭には、かわいらしい花や石、そして古壺などが散見しています。
更によく見ると、可憐な白い花の群生に、くすんだオレンジ色の皮が、ねじれたまま干からびて横たわっているのです。

なんと自然で、美しい様なのでしょう。

家人は、土を作るために、限定した有機物を投げることを許可しているのですが、私は、そんな理由よりも、声を出しながら物を投げる行為が、とても気に入っていま
す。

声を出しながら、物を投げる!

ええですよ〜。
是非、お試し下さい。

「俺も、後から土に還るから、待っててな〜!」

「お父さん!恥ずかしいから、窓閉めて!!」
(2007年2月)

「Wちゃんと父ちん」

わけあって小学2年生の娘を連れて帰ってきた友人と、先日飲みました。
帰ってきた当初は、いくつも仕事を変わり、親の面倒と娘との生活も大変そうでしたが、この前は二人とも笑顔がみられて、ほっとしました。
「三原!実は俺ブログ始めたんだ、よかったら読んでみてよ。」
「おう、そりゃ凄かな。読ませてもらうよ。少しは、落ち着いてきたということかな。」
「まあ、なんとかな。」
そうやって教えてもらったブログには・・・・・・・

「娘の部屋に行き
机の上に年賀状を十枚置く
娘から言われていた分だ
隅にあった二つ折りのメモ用紙を開いてみた
上から順に名前が列記してある
仲のいいクラスメイトの名前
学童クラブの先生の名前
学童クラブの友達の名前
保育園時の園長先生と四人の先生の名前
そして保育園時の友達二人の名前
これで十人ちょうどか
・・・・・いや一番下に十一番目の名前が
おかあさんと小さい字で

僕はメモ用紙を元の位置にきれいに戻し
娘の年賀状をもう一枚重ねて置いた」
(2007年1月)

「なんでんかんでん」

終りました。

今年も終わったし、仕事のある部分も終わってしまいました。
身体のある機能は、もういくらストレッチしても、自重しても戻らないようです。
気持ちのどこかも、うすうす感じていましたが、終わったと認めざるをえないようです。

その他にも多くの事が、終わってしまった一年でした。

皆さん、お疲れさんでした。
お互いに、本当に大変でした。

しんどくて、精一杯で、あっぷあっぷでない人なんて、残念ながら一人もいないようです。
辛くなかった人が一人もいない、そんなトンデモナイ時代になってしまったようです。
まさか、ここまでになるとは、思ってもみませんでした。

来年がどうなるのか、全く分かりません。

一人一人の「しんどさ」が、来年になって、ころっと変わるとも思いませんが、とりあえずまだ来ない「しんどさ」に不安がっても仕方ありません。

とにかく!今年の「しんどさ」は、終わりました。
忘れることは出来ないかもしれないけど、終わってしまった事は、確かです。

よかたい!よか、よか!
終わってしまったもんは、しょーなか。
よう、わいは、がんばった。

さて!

ぼちぼち、ぼちぼちと、

新しい一年を歩いてみましょうかね。
(2006年12月)

「天蓋の亀裂」

先日、久しぶりに家族で北九州に行ってきました。

調べてみると2003年4月12日に、懐かしい面々が集い、20年間封印していたタイムカプセルがこじ開けられ、錆び付いた時間が流れ始めたのでありました。

流れ出てきた時間は、多くの歓喜と安堵を各人の胸に届けてくれて、懐かしむだけ
だった時間が、新たに動き始めるのを見ると、なんとその時間が自分にとってかけがえもなく重要で、貴重だったのかを思い知らされたのでした。

同時に、他では代えられない時間が「なぜこんなにも長くカプセルの中で眠らなければいけなかったのか?」の問いが、立ち上がってきたのです。
お互いに大切だった時間が、なぜ20年間も・・・・・

その地から去った者、残った者、出入りする者、それぞれの心に「問いの影」が、長く伸びてゆきました。
そして、一人一人が「問いの影」と問答し、苦しさに目を伏せると、自分の足から伸びる影が、まっすぐ「問いの影」に重なっているのに気付き、立ちすくんでしまうのでした。

光が、強くより明るくなれば、影は、漆黒の度合いを深め、闇の領域を広げてゆきます。

思えば、20数年前の光源が、ここまで届き、影を落としているなんて、稀有な時期だったのだと思います。
それくらい自分の中で大きな意味を持っていた数年間でした。

新しい生活に追われ、時間が流れるにしたがって、そんなに意識もしていなかった
「時空の別れ」が、決定的なほど大きく感じられてきて、向こう側を覗こうと思ったら、全力で飛び上がらなければ、縁を掴むことすら出来ないような気になっていたのかもしれません。
知らず知らずうちに、「聖域」を造ってしまっていたのです。

今思うと、そんな聖域の封印を解いてくれたのは、スカさんだったのです。
スカさんの病が20年ぶりの集いを用意してくれて、スカさんの涙が、止まっていた時間を動かせてくれました。
「今、一緒にいることに、感謝、感謝です。」

それから数回の宴があり、スカさんは一人旅立って行きました。
その年、残された我々は宴を開けず、じっとスカさんの言動を反芻するだけだったのです。

しかし、スカさんのおかげで一度流れ始めた時間は、自然と皆の気持ちに染み出てきて、先日の饗宴が開かれました。

私達が向き合うべき方向は、光源ではなく、光源から遠くまで歩んできて、今を生きている「あなた」達だったのです。

よござんす。
それでは、参りましょうか、新しい摩擦熱の遊行へ。
(2006年11月)

「無一文者とその所有」

先月、携帯を解約して、現代社会に馴染んでいない生活スタイルを過ごしていると書いたら、知人からある指摘をされました。

「今どき携帯を持っていない自営業者は珍しいとは思うけど、そんなに驚くことではないですよ。
年代が高くなると、電話として使うことあっても、メールを打っている人はほとんどいませんから、ポケットやバックの中に突っ込んだままで、滅多に使わないという人は、結構いるんじゃないかな。
それより・・・・なんですか、それ?」

「それ?って、何?俺の何か変なところある?」

「これだからなぁ〜、奇行や変人というのは、本人が全く意識していないから、他人が引いてしまうんですよ。」

「奇行、変人?俺が?そんな馬鹿な!世の片隅でひっそりと生活している善良な古本屋オヤジそのままだろ。」

「確かにひっそりと生活しているのは認めます。
お金が無くても苦に感じず、一片の気後れも無く、どうどうと自分のやりたいことを断行していると、みんな思っていますよ。」

「いや〜そこまで褒めなくても・・・・褒めているんだよね。」

「まあ、ある意味では・・・・褒められていると感じる感覚が、信じられないけど・・・・」

「いや〜、君はそう言うけど、これでも結構気を使っているんだよ。
一応、客商売のお店を開いている手前、お客さんが入り易いように戸口を開け、本や小物も俺なりに整理して、音楽も耳に心地よいBGMを流して・・・・」

「確かに店は広くなったし、前の店の時よりも随分と本が見やすくなっていると思います。
それは認めますが、気を使う対象を自分にも向けてくださいよ。」

「はぁ?俺?」

「そうです!やっぱ、気付いていないんだ。
じゃぁ、はっきり言いますけど。
なんですか?そのハダシ!
ビーチサンダルを履いているならまだしも、それすらカウンターの隅に脱ぎ捨てて、なんで店内をハダシで歩き回っているんですか?
ペタペタと音を立てながら・・・」

「気持ちいいから。」

「だから!今どき、気持ちいいからといって、ハダシで歩き回っている人、いないでしょ。」

「そうだよな。みんな靴を脱いで、ハダシで歩けばいいのに・・・・」

「普通の人も、家の中ではハダシで歩いていますよ。
でも、職場やアーケードを靴も履かずに歩かんでしょ。」

「アーケード?えっ、見てたの?なんだ、声掛けてくれたらよかったのに。」

「声なんか掛けられませんよ!声掛けたら、知り合いだと思われるじゃないです
か。」

「なんで?恥ずかしがりやなんだからな〜
あの日、本を発送するために、郵便局へ行こうと何も考えずに店を出たら、そのまま・・・
でも、路面電車のレールを踏んで、はっと気がついたよ。
やはり、ハダシだと足裏の感覚が違うんだねぇ。
ハダシでなければ、レールのひんやりとした感覚も、路石のほんわかとした温かさ
も、頭では知っていても、感じることはなかったよ。」

「そういう問題じゃないでしょ!
この前なんか、店内をハダシで歩いている徳さんを見て、店の前で靴を脱ごうとしていたおばあちゃんがいたと言っていたじゃないですか。」

「そう、そう。そのままでいいですよ。と声掛けたよ。ハハハ・・・」

「はぁ・・・いっその事、畳を敷いて座敷にしますか。」

「おっ、それ良いね。古本座敷夢屋・・・・いいじゃん!」

「それって、自分の部屋とどう違うんですか?」

「・・・・・・」
(2006年10月)

「また一つ、これからも一つ、二つと・・・・」

携帯電話を手放すことにしました。

大層な理由があるわけではないのですが、「私」が別に「いらないな〜」と思ってしまったのです。

持っていなければならない「必然性」は、もちろん初めから無かったのですが、持っていると便利なことや役に立つことはありました。

店番のバイトさんが、私といつでも連絡がとれることで、不安感が少し軽減されることや、本の問い合わせや困ったことにすぐに対応できることで、助かった事もありました。
ついこの前デジカメを買ったのですが、それまで商品の画像を送って欲しいとの希望には、携帯で撮った画像を送っていました。
友人同士での待合場所の確認や、居酒屋からの呼び出しの電話も、どういうわけか家の固定電話でなく携帯電話にかかってきました。

携帯メールは、どうしても指と頭が動かなくて習得を諦め、受信しても家や店のパソコンから返事を出していました。
月々の料金明細書には、「あなたは無料電話料で、1100円分の通話が可能でした。」などと、親切なメッセージが書き込まれていました。
家族割引に入っていて、家内は夜遊びしている息子に「早く帰ってきなさい!」と何度か電話していたようですが、私からかけた事は一度もありません。

私が唯一携帯の必要性を実感するのは、倉庫で「時間」を確認する時と、一時期迷い込んで来た仔猫「ミルク」の写真が画面にあり、見る度に心がほわりとなる時だけです。
でもこれって、時計と写真の役割で、携帯電話でなくてもいいのですよね。

携帯電話って、どうやって使えばいいのですか?

携帯電話を使い始めて何年経ったのか分かりませんが、私の生活には根付かない道具だったようです。
というか、私の生活が、現代に根付いていないのかもしれません。

今後は、たまたま私が家か店に居て連絡が取れる以外は、「行方不明者」三原です。

あぁ、清々した!
(2006年9月)

「うつ病体験談」

私は、以前「うつ病」に罹っていました。

もう7・8年前になるでしょうか、長崎に出店してから数年が過ぎ店売りも下降気味になってきたので、ここら辺で新しい手を打っておこうと古本の即売会、店でのトレーディングカード販売、そしてネット販売を同時に始めました。
その仕事上の計画・遂行・決断・修正を、一身に背負うことになったのです。

そして、無理に無理が重なって、心のブレーキがかかり始めたのです。

私の経験上、うつ病になっても、仕事はこなせます。(よっぽどひどくない場合)
毎日しんどいな〜と思いながらでも追われる様に仕事や予定を消化していると、なんとか次に進んで行くので、「まあ大したことないか、今週末には少しゆっくりしう。」と思いながら・・・・
しかし、休みを取ろうと思っても、睡眠が浅いのか、短時間で目が覚めてしまい、
ぐっすり眠った気がしなく、疲れが取れません。

家族の何気ない行動や言葉には、イライラしますし、自分がこんなにも仕事に追われているのに、これぐらい手伝ってくれてもいいだろうとか、なんでそんなのん気な態度なんだ、周りは俺のことなんか何も分かってくれないなどと腹を立てたりしていました。

ある時、読んでいる新聞の内容が、全く頭に入ってこないことに気が付きました。
読めることは読めるのですが、内容が頭に留まるという気がしないというか、なんの感情も湧いてこない感じです。
また、興味や好奇心が失せて、楽しみを求めるという気も起きて来ません。

どうも「うつ気味」だなとは思っていますが、ひどくなってきているとは思っていないので、知人と会って気分転換や家族との会話などを試みて、少しずつ心の休息を心掛けました。
それぞれは無難に対処できるし、会話も滞りなくこなせるので、たいした事がなのだろうと思いながらでも、頭では「うつ病」の事がありますので、「希死念慮」はどうなんだろうと自分の気持ちを探ってみたりしました。

大体「希死念慮」について、探ってみようと思う事自体が、すでに死の概念に近寄っていることで、車を運転していても、ハンドルをここで右に切れば事故を起こしてしまうだろう、ほんのちょっと今、ハンドル切れば・・・
簡単なものなんだな〜なんだ普段は何も考えないけど、すごく身近に「死」があって、隣り合っているというよりも皮一枚なんだな〜とか考えています。

電車がホームに入ってくる時が、一番危なかったです。
私の思考の癖もあるのでしょうが、より身近に行って考えてみたいと思っているので、瞬間、瞬間の「死の誘い」を知りたい・・・なるほど・・・・もっと知りたい・・・・なるほど・・・もっと知りたい・・・・・
気がつくと、手で駅のベンチを必死で握っていました。
その時、ああこれは完全に「うつ病」に罹っていると分かりました。

こんな場合は、自分で対処するのではなく、まずは病院に行って薬を飲まなくてはいけません。

が、ここが私の一番悪いところです。
せっかく「うつ病」になったのだから、この経験をしっかりと分析してみたいと思い、あれこれ試してみることにしたのです。
しかも、知識的に知っている効果的な回復方法は、あえて取らず(すぐに回復してしまったら、他の方法を取って確認する機会を逸してしまうので)あまり効果が無い方法を試しながらジワジワと回復を目指しました。

しかしその際、この「うつ病」分析に集中するために(その理由を立てることによって)仕事を大きく削除しました。
少し削っただけでは、他の用事でその穴をすぐ埋めてしまうことを体験的に知っているので、全仕事量の半分(!)を超える分量を目安に思い切って諦めることを考え、実行しました。(これが一番良かったのだと思います。本当は「全部中断」するのが良いのでしょう。)

そして自分の身体と精神を使って、じっくりと「うつ病」腑分けをしたのであります。(もちろん、このような思考実験が行えるのですから、うつとしては初期で軽度だったのだろうと思います。)

その結果、自分なりに掴んだ事は多くあったのですが、「病院にすぐ行って、薬をもらうのが一番良い方法」だと、あらためて確信した次第です。

今度は、すぐに病院に行って、薬を飲んだ自己変化を分析しようと楽しみにしていますが、なかなか「うつ的症状」になってくれません。
どうも、「うつ的になるまで、がんばることないんだよ。」という大鉄則が、私の中で出来上がってまって、ちょっとでも無理すると、自然と心と身体が思いっきりブレーキを踏んでしまうようです。

家族は、もう少しアクセルを踏んで欲しいようですが・・・・
(2006年8月)

「真夏の夜の夢」

ガタガタと音を立てて、身体が崩れているようだ。

その音の出所を知りたくて、2年ぶりに成人健診を受けることにしました。
町費援助の健診資料を取り寄せ、基本健診項目と胃・肺・大腸がん検診と肝炎ウイルス検診を希望し、最終ページを見ると全額自己負担で「前立腺検診」の項目があります。

確かアメリカ男性のガン第一位で、日本でも大腸がんよりも多く、早晩胃がんを抜いて2位になると言われていたはずである。
前立腺の衰えと異常が増えてくる年齢になってきたのだと、1680円の自己負担を気持ちよく了承し、これも希望項目に書き込みました。

その晩、ネットで前立腺がん検診の方法を見て、思わず「ジゴンス(長崎弁でジゴ=お尻、ス=穴)」をキュッと・・・。

画面に広がっている輪切り人間の体位は、柔らかい曲線で描かれていますが、明らかに下半身をお医者さんにさらし、足を上げ、肛門から指やら器具やらを差し込まれているのです!

こっ、これは!・・・・・

自意識の無い赤子の時に、イチジク浣腸を受けたかもしれないが(常備薬の箱の中に奇妙な形の器具があり、恐る恐る光にかざした記憶があります。)少なくとも私の記憶の中には、名前も知らないうら若い看護婦さんに(私の中では、勝手に「看護婦さん」と決めつけていました)このような格好を見せたことはありません。

大変なことになってしまいました。

書類を隅から隅まで読んでも、どんな体位で・・・いや、どんな検査方法でするとか、書かれていません。
検査日前の晩21時から飲食禁止とは書かれていますが、その日の朝に必ず直腸内をカラにしておくようにとも書かれていません。
清潔で、脱ぎ易い下着の指示も、患者さんの心得として、どんな状況でも取り乱さず、冷静に対処する「断固たる覚悟」の承認も、書いていませんでした。

そして、もし、もしもですよ!
経験した事が無いような快感が襲ってきて、思わずヘンな声を漏らしてしまった時、看護婦さんになんと言って・・・・
「ありがとうございます」も変だし、「こんな感じ、初めてなんです」も・・・・

だから、前立腺検診だけ完全自己負担で、快楽を・・・失礼、健康を買うのでしょうか?

目は画面に釘付けになったまま、頭の中では取りとめもない考えが、グルグルと回り始めていました。


そして運命の健診日・・・・・・

今か今かと、下着を脱ぐタイミングを見計らっていた私に、優しい看護婦さんが

「はい。三原さん、終わりましたよ。会計で自己負担分を払って、来週検査結果を聞きに来て下さいね。」

呆然と立ちすくんでいた、私でした。

(前立腺検診は、血液検査で出来るようですので、皆さんも是非受けてください。)
(2006年7月)

「ムーチョスグラシアス」

我が家にメキシコ人が、やって来た。

ノリだけで世の中渡って行けると思っている息子は、深く考えずに「ホームステイ受け入れ可能家庭」に挙手をしたのであります。
その晩、家族会議に提議したのですが、現実的な母親からは、ごもっともな反対意見が続出!

「あんた、英語しゃべれると?」「寝るところ、どうすると?」「お父さんもお母さんも仕事だから、世話できんとよ。」「食べものの好みもあるだろうし、食事のことを誰がすると思っているとね!」「人様を預かると言うことは、あんたが考えているより、責任があるし大変なことなんよ、分かっているとね?」・・・・・

確かに、我が家が受け入れ可能な条件を満たしているとは、到底思われません。

しかし、ノリだけで世の中渡っていけると思っている私は、深く考えずに「まあ、どがんかなるやろ。なんでもやってみよう!」と・・・・

資料を見るとデンバーから来る学生で、ヘクター君とだけ書かれてあり、父の名がフェルナンドともあるので、ヒスパニッシュ系の米国人なのだなと思っていました。
ところが、実際にはバリバリのメキシコ人の若者で、母語は当然ながらスペイン語!10ヶ月前までは英語をしゃべったことも無く、語学勉強のためにデンバーにホームステイしていて、卒業旅行と言うか最後のカリキュラム日本訪問だったのです。

かくして我が家の、ホームステイ受け入れドタバタ騒動の開幕です。

初めての晩から、温水機のスイッチを入れるのを忘れたまま彼をシャワーに導き、彼が寒さに震えて出てきた様を見て、「キャ〜〜!ソ〜リ〜!」
メキシコも暑いけど、向こうは乾いた暑さ、日本は湿気を含んだ暑さで、時は梅雨真っ盛り!
息子の部屋で寝てもらっていたが、クーラーが無い部屋で一晩中「最強」の扇風機が唸りを上げて回っていました。

最大の問題は、英語力。
彼はたった10ヶ月の学習で、英語ペラペラなのに、我が家といえば、家内はなんとか、息子は高校英語、私は動詞も助詞もない名詞だけのレベル、娘は大和撫子ゆえに奥ゆかし。
彼は、さぞかしショックだったでしょう。

しかし、サイは投げられているのです。
各々が持てる力で立ち向かうしかありません。

彼は、唯一話が通じる家内に必死に話しかけ、彼女も家事の合間に受け応えます。
私は、翌日図書館からメキシコ関連本とスペイン語の本を山ほど借りてきて、「ブエノスディアス!」と声かけます。
息子は息子で、「私の英語」を英語に通訳して彼に伝えたり、彼の言葉に大げさなアクションで応えています。
娘だけが、普段と変わらず自然に振舞い・・・・

そんな彼との生活が続き、気が付くと普段はみんな「自分」のことばかりで手一杯なのに、知らぬうちに相手のことを読み取ることを第一義に考えるようになっていました。

コミュニケーションって、まず相手の言っている事を「聞く」ことから始まります。「聞いて」その内容を理解・吟味して、自分の考えをまとめ、「話す」に繋がってゆきます。

今回のように「聞く」こと「話す」ことに障害があっても、お互いに相手のことを想像し、汲み取る努力をすることで、コミュニケーションの扉が、開きます。
いや、「相手の事を想像し」「聞いて」初めて扉が開くのです。

そう考えると・・・・・・・コミュニケーションの原則がそうならば、別に異言語交流に限らないはずです。
日本語同士のやり取りでも、同じはずです。

私は相手のことを、ちゃんと「聞いて」いただろうか?
相手の立場や気持ちを、想像していただろうか?
日本語なので、文意を理解するのに苦労なく、「聞く」意味だけで「聞いたつもり」になっていなかっただろうか?

相手の言っている事を、自分の言いたい事の「踏み台」にしていただけではないか?自分の言いたい事が大事で、相手のことを「聞いて」いただろうか?

ヘクター君との会話は、とても大変でした。
向こうも当惑していたけど、私も必死でした。
脳みそもブルブル震え、自分のもっている脳力だけではなく、能力全てで取り組んだ気がします。

でも本来、コミュニケーションって、困難な作業のはずなんです。
自分とは違う他者と、「交感幻想世界」をお互いが築き上げる、「不可能前提」行為なんです。

そして、こんなにも「楽しい!」経験だったのですね。

ヘクター!グラシアス!
そしてアディオス!
今度は、アイがメキシコにゴーやけん、よろしく?頼む?リクエスト?違うな〜アスク?う〜ん・・・頼むばい!
(2006年6月)

「自気即是空空即是自気」

なぜこんなに、時間に追われているのだろう?

そんな「感じ」に囚われているのは、私だけなのだろうか?
あれこれ興味の手を広げすぎ、身から出た錆と言うことなのだろうか?
それとも完全な錯覚?

以前、この「時間影踏み」を解決するため、取り組んだ事があります。

◎しなければいけないと思っているものを、もう一度吟味して、明日出来ることは、明日するのではなく・・・・・・「諦める」
◎目の前の問題を、時間のかかる問題とすぐ解決できそうな問題に分け、すぐ解決できそうな問題は・・・・・・・・「取り組まない」
◎自分の「したいこと」は、家族と生活を最優先に考えて、出来るだけ・・・・・「やる!」(やりたい事が出来なくなると不機嫌になって、家族に迷惑をかけるの
で。←その性格を修正するべきだろ!)

確かに問題の整理もつき、心動かす問題も少なくなりました。
他人の目を気にしない性格に拍車がかかり、傍若無人ぶりが板に付いてきたようです。

が、空いた時間に結局何かを埋め、「まず、この本読んで、次に録画した映画観て、この前のゲームの続きをして・・・・」

状況は、変わりません。
時間は、相変わらず「ちょっと足らないな〜」のままです。
仕事や世事の問題に目をつぶった分だけ、気持ちは楽になったかな。

今回は、少し攻め方を変えてみることにしました。

思い切って、宇宙生誕「ビッグ・バーン」以前に帰ろうと思います。

私の勝手な解釈ですが、宇宙生誕以前を想像してみると、そこには何も「無い」のです。
しかも、その「無い」も無いのです!
「ビッグ・バーン」の瞬間、宇宙が生まれたのですが、その時「時間」と「空間」も初めて生まれてきました。
だからその「以前」はというと、以前という「時間」も「無い」し、宇宙が生まれた場所(空間)すら、無いのです。
「無い」も無い、仏教の「空」のような世界じゃないかと私は思っています。

時間に追われていることから自由になるには、この時間が生まれる前に行くしかないと思うのです。
でも、そこに行ってしまえば、空間も生まれていませんので、私の存在すらありません。(正確に言えば、死もありません。)
存在が無ければ、時間から自由になるという目的から、大きく逸脱してしまいます。それでは、困りますので、時間と空間が生まれてちょっと経った頃を想像するのです。
言葉を変えると、人が生まれてちょっと経ったところを想像するのです。

そう、時間感覚も無く、眠たくなったら眠り、腹が減ってはおっぱいを吸い、言葉もなく、ただ己の存在を震わせていたあの赤ちゃんに。

自分の時間を、「言葉で」細分化しすぎているのではないだろうか?
時間を細切れにして、それぞれ行動や意味を「考え」(言葉付け)隅から隅までびっしりと埋めていないだろうか?

本来だったらそんな疲れた心と身体を癒すための「休息」も、日にちや時間を考えに考えて予定・計画し、休む理由や方法を事細かに言語化して、「時間や心の空白」を「恐れる」ように、必死に「言葉を使って」自分を「安心させよう」としていないだろうか?

「休息」「癒し」「リラックス」「自分へのご褒美」「気分転換」「音楽聴いたり」「眠ったり」「酒飲んだり」「放棄」「身体を動かす」「楽しむ」「自分の趣味」・・・・・

「休息」時間のイメージが、細分化し、それが自己に絡まり、選択し、意味を問われ・・・・「休息」を懸命に活動しています。

一日の中の「生活」も、事細かに「言葉」で埋めていないだろうか?
散らかった部屋を見て、片付ける理由の説明を、または片付けない理由の説明を考えて、自分の心を納得させようとしていないだろうか?
仕事のこと、家庭のこと、社会のこと、子どものこと、相手のこと、自分のことを、多くの言葉で「埋め尽くして」いないだろうか?

少し「心を覆う言葉」を減らしてみようと思います。
「心を覆う言葉」を減らしても「心」は小さくならないでしょう。
小さな葉が群生している水草も綺麗ですが、何も浮いていないきらめく水盤も素敵なもんです。

赤ちゃんのぽっかりした「心」は、追われる「時間」も「空間」もありません。
たった一つの「時間」と「空間」が、儚げに揺れているだけです。
(2006年5月)

「ア〜〜〜ン、マンマ」

この頃、知人男性の中で料理をする人が増えてきました。
それぞれ諸事情があったりなかったりなのですが、サイトでレシピを公開している彼の文章を読んでいると、玄人はだしのこだわりと哲学が伝わってきます。

私は・・・・・・ダメです。

もちろん、学生時代とか関西で福祉作業所をやっていた時は、毎昼ごとにジャガイモの皮をむいたり、献立に頭を悩ましたりしていましたが、そんな機会が無くなると・・・・・・全然ダメです。

それなのに、料理の本とか道具の本などは性懲りもなく眼を通しているのです。
先日も、『キッチン・ルール台所の法則』小林カツ代朝日出版社を読んで、

「ねぇ、ねぇ、塩少々と砂糖少々って、量が違うって知っていた?
たくあんは、2切れで出さなくちゃだめだって。1切れは、「人切れ」3切れは、
「身切れ」4切れは、「世切れ」って言って、昔から避けられていたんだってよ。あっ、これ知ってる?・・・・」

「あのね。見ての通り、私は今その「料理」真っ最中なんです。講釈はいいから、たまには料理して、塩少々振りかけてみたら!」

・・・・・全くダメです。

レストランでバイトしていた時に、チーフシェフから

「三原!お前、料理人にむいているから、この道に入ってみないか?」

「えっ、そうですか?自分では全く気が付かないのですが、チーフの眼から見ると、隠れた才能が輝いて見えるのですか?」

「お前の才能は、隠れてなんかいない!うちのスタッフは、みんな知っているぞ。ダントツだって。」

「へへへ・・・みんながそんな風に、見ていたなんて・・・照れくさいな〜」

「いいか。料理人に大事なのは、「不器用さ」なんだ。」

「へっ?」

「手先が器用だったり、なんでもすぐにこなしてしまう人間は、初めはトントンと上手になるが、ある時点まで来ると、そこでパタリと行き詰まって、伸びなくなってくる。
しかし、不器用な人間は、出来るようになるまで何度も失敗して、上手になるために自分で考え、努力しなくてはいけない。
ある時点での壁なんか、いままで何度もぶつかってきた壁の一つでしかない、だから同じように試行錯誤で、なんとかしようと努力する。それが良いんだ。」

「・・・・・それって、私が不器用って、ことなんでしょうか?」

「当たり前じゃないか!どれだけお前の失敗に、厨房が大慌てしたことか!もう、忘れたのか?お前ってやつは・・・」

チーフ、あの時は心温まる勧誘のお言葉、ありがとうございました。

しかし、今思うのですが、努力する器用人もいるし、努力しない不器用人もいると思うのです。
だから料理人は、不器用な達人もいるでしょうし、器用な達人もいるでしょう。
バイトで垣間見ただけでも、私なんぞが勤まる世界でないことは、十分理解できました。

他人が食して幸せになったり、命を繋げたりするものを作り上げ、提供する料理人
は、本当に素敵だと思います。
大量注文だろうと、目の前の家族だろうと、自分の胃袋だろうと、必ず「相手」を想定して、フライパン振っています。
「相手」のために、包丁を握り、火を点し、味をつけ、皿に盛り付けます。
「相手」に提供する行為、それが料理の「隠し味」なんです。

そうか!
料理人の原型であり、究極の料理人は、「お母さん」だし、この頃増えてきている
「お父さん」なんですね。

「頂きます!!」
(2006年4月)

「菜の花の背筋」

いつも今頃になると、彼女を想い出します。
何処で、何をしているだろうと・・・・


観光の街長崎だからか、結構外国の人達が店を覗いてゆきます。
欧米人が日本人を見ても、中国人か韓国人か日本人か区別がつかない様に、私もアメリカ人かイタリア人かコンゴ人か、区別がつきません。
それだけではなく、私は欧米人同様、中国人か韓国人か日本人かの区別もつきません。

ここ数年ご無沙汰していた親戚のYさんだと気付き、慌てて挨拶すると、中国語で返礼がきてビックリしたり、ニ十数年ぶりに会った高校の同級生に声を掛けると、英語と片言の日本語で人違いだと教えられたりもします。

だからか、日本語、英語、中国語、韓国語の「ごめんなさい」だけは、上手に言える様になりました。

普通の若い女性が、雑誌の棚や一般書の棚の前で本を読んでいました。
よくある風景なので、気にも留めずに自分の仕事に取り掛かって、しばらくして目を上げると、まだ彼女は本を読んでいました。

「ほう、一時間ほど経つのに、よっぽど面白い本に出合えたのだな。」と思った瞬
間、彼女と目が合ってしました。
シマッタと慌てて目を伏せたのですが、彼女も気まずくなったのか、カウンターに本を持ってきたのです。

「ごめんなさい。気にしないでそのまま読んでいていいですよ。椅子もありますから、遠慮なく言ってくださいね。」

と言うと、

彼女は、小首を傾げたまま、困惑したようにこちらを見ています。

そして、ゆっくりと「日本語・・・・分かりません。私・・・中国・・・仕事・・・来ました。」

あっ、と思いながら彼女が手に持っている本を見ると、中国紀行本でした。
日本語の文章がどこまで理解できるのか分かりませんが、多数の写真を観て故郷を思い出していたのかもしれません。

「対不起ドゥイブチィ!(ごめんなさい)えーと、我ワオ不プーえーと分かる・・不プー分かる・・いや、分からない中国ツォンクォウ語っ
て、なんて発音するのだったっけ?・・・対不起ドゥイブチィ什*シェンマ?(なんですか?)」

「私・・・少し日本語・・・大丈夫です。」

片言日本語と筆談で話を聞いてみると、彼女はここからバスで30分ほどかかる所の食品工場で働いているとのことです。
数ヶ月前に集団で日本語の勉強をする名目で来て、勉強少しに仕事いっぱい(彼女談)らしいです。

「工場仕事終わって・・・ここ・・仕事ありますか?」

「えっ、バイト?仕事?・・・う〜ん。対不起・・夢屋・・・仕事無い・・ごめんな。」

話の中で、彼女がバス代を浮かせるために歩いてここまで来ていることも察しがついたし、なんとか手助けが出来たらとも考えたのですが、工場の仕事もきつそうだし、それが終わって夢屋に来るには体力的・時間的にも大変だろうと思うし、日常会話がまだまだで筆談に頼らなくてはならないコミュニケーション力では、お客さんや他のスタッフとの関係を築いてゆくのも時間がかかりそうでした。
そして何よりも、夢屋の経済力が、それを許さなかったのです。

「ごめんなさい。仕事・・・不要プーヤオ・・・・すまんけど。」

彼女は、少し笑みを浮かべ、はっきりとこう言ったのです。

「私、お金・・・要りません。代わりに・・・・ここで、本・・・読ませてください。」

「えっ!」

私は、本当に恥ずかしかったです。
彼女の経済的事情を考え、自分の懐を考え、卑しくも様々な理由を考え、断りました。
お金に困っている彼女だから、仕事の申し出はお金のためと信じて疑いもしませんでした。
バイトの申し出を断っておきながら、なんとか手助けでもしてあげれたらと、偽善的に考えもしました。

慌てて、
「仕事なんかしなくてもいいから、いつでも来て、好きなだけ本を読んでいいよ。本も貸してあげるから、持って帰って読んだら返してくれたらいいから。本当に、気にしなくていいから、何時間でも本を読んでいいからね。」と・・・・

しかし、彼女はそんな憐憫や施し的な申し出から自由であるために、自分の「労働」を提供しようとしたのです。
「本を読む」ために。

「ありがとうございます。」

彼女は、にっこりと笑って頭を下げると、故郷の本を棚に戻し、店を出てゆきました。

その後、二度と彼女が夢屋を訪れることはありませんでした。


いつも今頃になると、彼女を想い出します。
何処で、何をしているだろうと・・・・
(2006年3月)

「ブラウン運動は、人を選ばず、拡散す!」

タバコをやめて、一ヶ月経ちました。

確かに、仕事が一段落した時、食後、込み入ったメールを書く時には、吸いたくなります。
今、深く息を吸い、ふ〜〜とゆっくり紫煙を吐き出せば、さぞかし美味いだろうなと夢想もします。

この先、酒宴の席で自制心が弱くなって、つい吸ってしまう事があるかもしれません。
私は、意志薄弱ですので、1本ぐらいならと自己弁護しながら、吸うこともあるでしょう。
むしろ、そうしながら、徐々に離れてゆけば良いぐらいに考えています。(考えが甘いっすか?やはり・・・)

しかしその翌日からは、またタバコを吸わない日々を続けることは、間違いない気がするのです。
と言うのも、タバコを吸わないことに得心したというか、心のシフトが切り替わってしまったのが、自分で分かるのです。

散々聞かされたタバコの害や医学的見解、社会の趨勢は、もちろん頭で理解していました。
タバコをやめる方向に、自分も社会も進んで行っている事にも気付いていました。
一年ほど前から、自分の生活環境の中で吸わないエリアを少しずつ広げていて、日に10本程度になってもいました。
が、完全に手放すには、どこか心の踏ん切りがつかなかったのです。

世の中の正論に組する居心地の悪さ、自分の選択肢を奪われるような抵抗感、ニコチンによる薬物支配、単なる習慣なのに尊大に意味付けした行為認定、心の不安代謝としての依存行為、未熟な自意識による自己擁護・・・・

どれがと言うよりも、全部を使って必死で正当化していたのです。

家では1本も吸わないようにしているし、前よりだいぶ本数も減ったから、ニコチンの害も少なくなってきているはずだよ。
周りにも気を使って、出来るだけ人のいない所で吸って、ちゃんと分煙活動をしているしな。
自分が好きで吸っているとやけん、肺がんになれば、自己責任できっちりひきうけたらいいんだろ?
なんやかんやとストレスの多い生活に我慢しているのだから、一服くらいの自分へのご褒美があったって、よかやろう。
タバコぐらい、よかやっか。


今年に入って目にしたいくつかの新聞記事やチラシは、そんな「自分のことばかり」を言っている喫煙理由を大きく揺さぶりました。

アメリカのどこかの州で、タバコの煙は大気汚染と認定されたそうです。
車の排ガスや工場の煤煙公害と同じと考えられて、州内の海岸や公園の全エリアが禁煙になりました。
十数年前から喫煙コーナーや分煙運動を徹底して行ってきたアメリカで、分煙では他者に対する喫煙の害を食い止めることは出来ないと、結論付けられたのです。

ヨーロッパでのパブでも完全禁煙となり、お客が吸ったら店主が1本につき42万円もの罰金を払うようになりました。
この考えも、他の人間に害をもたらす空間を提供した責任をとわれたものです。

先日行った薬局内のポスターに、こう書かれてありました。
「他人のタバコの煙で、年間900人の人間が死んでいます。」

児童虐待のニュースに眉をひそめて虐待した親を責めるくせに、自分はタバコを吸いながら子どもを虐待しています。
存在しているだけで、他者に対してなんらかの権力や暴力を与えてしまっていることも確かでしょう。
だからと言って、修正したりやめたりする事が可能な「暴力」を、そのままにしているのは無責任な身勝手さの何ものでもありません。

自分の子どもであろうが他人の子どもであろうが、「子どもを虐待したり、殺したりすることはしたくないから」タバコを吸うのをやめようと思ったのでした。
(2006年2月)

「牛背の妙好人」

あっ!

と言う間に、1月も終わろうとしています。
早すぎます。
1年12個しかない月を、一つ使ってしまいました。
なんと・・・・

知人から、言われていたことがあります。

「三原君。人生って帳簿台帳みたいなもので、毎日こつこつと書き込みながら、ある時その残高を引き継いだまま、パラッとページをめくる時があるんだよ。
その時、真っ白なページが広がり、新しいインクのシミを落としてゆくのだけど、その晴々とした気持ちと共に、一番危ない時でもあるんだ。
年齢的にも、身体的にも、そろそろそんな時が来る頃だから、その時は十分気をつけるんだよ。」

深くこの言葉が胸に響きます。
何がどうだ、と言うわけでもないし、特別に身体や気持ちが落ち込んでいるわけでもないのですが、このイメージが、ふっとした時に強烈に甦ります。
多分、心と身体の奥底で激しく点滅している箇所があって、声無き警告を送っているのでしょう。

元来、知識欲はあるのですが、知識に信頼は置いておらず、なんとなくの嗅覚や第六感の方に信をおいて生きて来ましたので、この声には素直に耳を傾けたいと思っています。

何年も新年の抱負とか目標なんぞ立てたことはありませんでしたが、今年はその声に導かれるように、二つの目標を立てました。

「太る」
「寝る」

です。

年末のある時、風呂場にあった体重計に乗ってみると、50kg台を針は指してお
り、エッと思って顔を上げると正面の鏡には、白髪のムンク「叫び」がこちらを見ているではありませんか!
その鬼気迫った形相に、自分でもぞっとしました。
せめて、初見でも人間と認めてもらえるほどには、頬に肉をつけたいと・・・

貧乏性の私は、睡眠を多く取ってしまうと、一日が短くなったような気になって、
「損した〜」と思っていました。
しかしこれは、完全に間違いです。
人間が人間らしい活動能力を維持するために必要な睡眠は、不可欠なのです。
眼球を空気にさらしている時間が、たとえ長くなったとしても、頭の中で愚にもつかない夢想でいっぱいにしているなら、おとなしく布団に横たわっていた方が、電気代や暖房費の節約になります。

ページをめくった第一行が、「太る」「寝る」では、いささかカッコ悪いですが、次のページめくりには、必要なようです。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
(2006年1月)

「哀しき修羅の道」

今年も多くの知人、同級生との別れがありました。

年々、別れが胸にずっしりと堪えます。
喪った事実を反芻する言葉を失い、ただ寂寞とした淋しさに身を沈めています。

亡人達の名を列ねるだけで、じわじわと外堀を埋められているような逼迫感を感じるのです。
オセロの盤上白一色だった自陣が、ある日を境に次々と黒駒に翻って、食い止めようとする気力を剥ぎ取ってゆくようです。

どこかの思想家が、「嘗て一度たりとも、政治がその掌のなかから死を手放したことはない」と言っていました。
初めそれを読んだ時、なるほどなぁと感心したものです。
「死」の恐怖をちらつかせたり、管理して、抗いを封じたり統治しているのだなと・・・・

しかし、今は思うのです。
国家が管理しているのは、誕生の「生」だけなのだと。
その後の「生き方」「生活の仕方」はとっくの昔に手放して、「死」すら「あなたのお好きにどうぞ」と・・・

私達は、「自分の死」を想像するだけではなく、創造しなくてはならないのです。
自身の死を考え、怖がっているだけでは「死ねない」ところまで来てしまっています。
「死に方」を、段階的に無数の選択肢の中から選び、積み上げ、彩り、幕引くのです。
私は、どう死にたいのかと・・・・

生きたい様に生きれないのも辛いですが、死にたい様に死ねないことは辛さを伴った酷さです。

「自分がどう死にたいのか?」と問うことは、「自分は、本心では何を望んでいるか?」「自分は、どうありたいのか?」「自分が生きてきた人生は、なんだったのか?そしてそれをどう閉じたいのか?」への回答を模索することです。
そして、それは取りも直さず、「私は、何者なのか?」の変奏曲なのです。

たとえ「自分」が、時代による無意識の集積物であろうが、創られたものであろう
が、虚無であろうが、良いではありませんか。
外世界から創られた「自分」であっても、生きてきた「世界への傷」は、残してきたはずです。

微かな傷かもしれません。
カッコ悪い傷、後悔だらけの傷、悲しみの多い傷だったかもしれません。

しかし、確かに私達は、「世界への傷」を刻んできたのです。

最後のノミを世界から離す時、想いという筆圧を手放す時、どのような傷跡が見えるのでしょうか。
その傷跡を、出来るだけ素直な気持ちで眺めてみたい、抱きしめてあげたい、認めたい、そう願っているのだと思います。

闘病者が時に見せる透明な世界は、生きてゆきたい気持ちを踏まえた上で、自分の傷跡を正面から見ることが出来た「贈られた地平」なのかもしれません。

考えてみると、こんなに難しく苦しい「生」はありません。
そんな「哀しき修羅の道」を歩んでいる人が増えてきたし、今後私達は歩まなければならないのだと思います。

今年のことは、言うまい。

先達の墓標とエールを背に受けて、よろめきながらでも修羅の道を歩んでゆこうと思います。
(2005年12月)

「スクルージ爺さんの贈り物」

私は、物が無くても寂しくないし、あまり欲しいと思わないのです。
無ければないで、あるものでどうにかすればいいや、本当に必要なものであれば、いつか時が来れば、自然と求めるようになるだろうと・・・・

ただし一度手元に寄って来たものは、捨てきれずにいつまでも持っているのです。
店の片隅や倉庫の奥、棚の上やら押し入れの中・・・・とりあえず、とりあえずと言いながら、出会った物達を鎮座させていますが、その後はすっかり忘れてしまい、何年もそこで眠る羽目になります。
(陰でせっせと家内が捨てているようですが、知らない振りを決め込んでいます。)
今回の夢屋移転は、そんな自分の業を封印し、とにかく処分、処分の大作業でした。大量のコミック、文庫本、単行本を近くの大型店に売りさばき、これでもか、これでもかと・・・・
おかげで、何とか引越しも無事終わりました。

不思議なことに、手放すことに心残りも、もったいなさも全く感じませんでした。
非情なのか、本来的に物に対する気持ちが希薄なのか分かりませんが、そんな自分の心を知ったことが、引越しの最大の収穫だったかもしれません。

「所有」とは、何なのでしょうか?

有形無形を問わず、人は「所有」の行為を続けています。
あれが欲しい、これも欲しい、もっと暖かく、もっと快適に、家族の愛情も欲しい、知人の好意も集めたい、若さも欲しいし、綺麗でありたい、もっとスポーツが上手になりたいし、手際よく仕事や家事もこなしたい、お金はもちろん欲しいし、時間があればやりたいことが一杯ある、いろんな所にも行きたいし、名声や評価も欲しい、長生きもしたいし、幸せでありたい・・・・
そしてなによりも「自分」が欲しい。

禅僧の様に、モノを得ることは捨てることと同じで、結局何も無い、そう「無い」ことも無い「無」なのだ!喝!
と、言うのは易いが、なんの慰めにもなりません。


旧夢屋を手放し、新夢屋を所有しました。

最後のシャッターを下ろす時、一瞬、店の奥で本を読んでいる自分を、見た気がしました。

「お疲れさん!」
(2005年11月)

「バージェスト動物群の障害物競走」

突然、電動ヒゲ剃り機が充電しなくなりました。

充電しようと思ってコンセントに差し込んでも、充電ランプは沈黙を守ったままで、電源を入れても情けないほど力無い音が鳴るばかりです。
顎に当てると「プチッ」とひげを挟んだまま止まってしまい、痛みと共に引き剥がすしかありません。
何度も試しているうちに、うんともすんとも言わなくなり、ただ何本かのヒゲが無理矢理引き抜かれただけでした。

いっそこれを機会に、今流行の無精ひげにしようかとも一瞬思いましたが、ただでも貧相な顔をわざわざ累乗するようなものだと、諦めました。
ならば、何とかひげを剃らなければなりません。
理想は、西部劇で見かけるクリント・イーストウッドが、顎に泡を立てて大きなナイフでシャラリと・・・・
分かっています。血だらけになるだけと言いたいのでしょう。私もそう思いました。
洗面台や風呂場を探すと、昔使っていたT字カミソリが、十分錆びたまま放置されていました。
試しに使ってみると、10本のヒゲのうち2本は剃れる感じです。
おぉ〜と感嘆しながら、同じ箇所を5回往復してみると、どうしても切れない1本が残るぐらいには、剃れます。
それならば、問題ないと、今朝も使ってきた次第です。

しかし、何年ぶりでしょう。
自分の顔をまじまじと見たのは・・・・
全体的に「白く」なった印象です。
髪の毛が白くなってきたこともあるでしょうし、生えてきているヒゲもよく見るとほとんどが白いのです。
顔色も悪いからか、このまま薄く鏡に溶け込んでしまいそうな気がして、思わず頭を振ってしまいました。

間違いなく、人も物も「変化」しているのですね。

物が壊れるのは、突然に決まっているのですが、でもよく考えてみますと、目に見えない部分で少しずつ「壊れる」に歩みを進めていたのかもしれません。
部品と部品の間に薄く微量に溜まり続けるホコリや、配線の抵抗力が経年の使用で大きくなっていたり、あちこちでぶつけてしまいネジや部品間が広がっていったり・・・・

気付かない小さなスイッチが、一つ、また一つとONに切り替わってゆき、ある日突然大きなスイッチが「パチリ」と入り、慌てて切り替えようと思っても、もはや小さなスイッチを戻す事は出来なくなっています。

そうやって「変化」は、突然訪れるのです。

さて来月は、突然の「夢屋」移転です。

「小さなスイッチ」を、一つ、また一つと・・・・・
(2005年10月)

「unブッダ」

この頃、他人に「文句」ばかり言っていませんか?
不平不満ばかり口にしていませんか?
したいことが出来ない理由を、他人のせいにしていませんか?

私はとにかく「時間」が欲しいです。
昔からそうなのですが、いつも「時間」が足らないとの思いが強いです。
「時間」があれば、どうなるのかというと、そこは「欲」の満載なのです。

家族旅行もしたいし、それ以上に一人旅をしたい。
会いたい人にも会いに行けるし、思い出深い場所へも、もう一度訪れたいです。
読みたい本もあるし、聴きたい音楽も、観たい映画も沢山あります。
曜日も他人も気にせず、独りの時間をじっくりと貪りたいです。

知人とゆっくりと酒も飲み、寝たいだけ寝て、おいしい料理を堪能し、素敵な風景に見惚れていたいです。
追われる様な思いでしている仕事も、丁寧にする事も出来るでしょうし、時間をかけて多数の本を入力したら、売り上げも伸びるかもしれません。

現実的には「お金」が莫大にあれば、この「欲」のいくつかは実現可能なのでしょうが、「お金」が莫大にあるということが、充分「現実的」ではありません。
一日の長さも、人生の長さも有限ですから、むやみに「時間」が欲しいと言っても、詮なき事です。
「お金」が欲しいと願う方が、「欲」に対して素直なのかもしれません。

人生経験をいくら重ねても、本を読んで小賢しくなっても、世界を見てはるかに恵まれた状態に生活していても、「欲」はつきないし、「不満」も尽きません。
「分かっている。」「仕方ない。」と前頭葉が点滅しても、小・中・間脳が決して首を縦に振りません。
感謝の気持ちを口から発する事はたやすくても、感謝が入っている心の引き出しはどこにあるのか忘れてしまっています。

ただ、「不満の質」がちょっとこの頃変わってきているような気がします。
自分もそうですが、周りからも「他人」に対する「文句」ばかりが聞こえてきます。その「他人」に実際問題があることも、あるでしょう。
しかし、社会も私達も、少し「他人」に傾きすぎているのではないでしょうか?

「他人」に傾いている分、自分自身への内省は軽くなり、「他人」への期待や意味が大きくなります。
「他人」が自分の想定しているように動かなければ、「自分」の根幹に抵触する感覚を持って、「文句」「批判」をしてしまうのです。
だって「自分」の領分を「他人」に預けているのですから。

この傾向が、人類の普遍的な方向性なのか、仕方がないことなのか分かりません。
ただ、自分が「不満」の理由を「他人」のせいにしていたと後で気付いた時、とても「嫌な気分」になるのです。

「欲」まみれに生きてゆきたいと思っています。
やりたい事のほとんどは実現せず、「時間」が欲しいと思いながら死んでしまうのでしょう。

でも、「不満」ぐらい「他人」のせいにせず、「自分」の手元に置いておきたいものです。
(2005年9月)

「地中の水脈は、今日もポコポコと」

当店も軒を連ねるアーケードですが、ここ数年で空き店舗が増え、それがまたなかなか埋まりません。
いつまでも「空き店舗」の張り紙が・・・風に吹かれて隅が剥がれるまで・・・

「来週、孫が帰省しますので、また連れてきますね。」
「ありがとうございます。いつもお盆と正月に決まって来店してもらい、私もどんどん大きくなってゆく姿を拝見するのが、楽しみなんです。」
「孫も電話をかけてくると、おばあちゃんの家に行った時は、夢屋に連れって言ってね。と必ず言うのですよ。」
「それはまた、本屋冥利に尽きます。偉大なる小さな常連さんですね。」
「買いたい本やカードをメモして来店するのに、結局買うのは違う本やカードなんです。いつだったか、どうして?と聞いたら、想像もしていなかったものに出会ったから、それに・・・・」
「それに?・・・」
「それに、今度来た時に夢屋が無いかもしれないし、って・・・・」
「・・・・・・」
「ごめんなさい。あんな年なのに、なんとなく分かるんでしょうね。それがまたドキドキの魅力みたいですよ。」
「あっ、ありがとうございます。裏切らないようにがんばったらいいのか、期待通りに突然姿を消した方がいいのか分かりませんが・・・・」

今年の夏も小さな常連さんを無事迎えることが出来ましたが、正月は・・・・

って、そんな遠い先のこと全く考えていません。

今日もまた一日こつこつと働いて、明日もまたこつこつと働く、帰って家族とご飯を食べながら、とりとめもない話題に冗談を飛ばし、週一の連ドラを楽しみにし、読み終えた絵本を開いては子ども達に薦めてみる。

そんな時間は、小さな常連さん達が支えてくれているからだと、改めて感謝している次第です。

ささやかな幸せは、小さな出来事と小さな時間が積み重なってしか成り立ちません。その小さな幸せは、他には代えがたい大切な「大事」であります。
(2005年8月)

「無窮の鐘」

先月の自殺に関しての感想文に、多くの人からメールやら意見が寄せられました。

7年連続で毎年3万人以上の方が自死している現在、もはや無関係、無縁な人は一人もいないのが現状だと思います。
そう頭では分かっていましたが、皆さんの反応を受け、「自殺」の言葉や話題から遠く離れているように見えても、心の棘のようにいつもずきずきと疼いているのだと、改めて痛感した次第です。

そんな人の琴線に触れるような問題を、私が書き連ねる恐れ多さも感じていますが、秘匿にしていることの弊害や無視出来ない現実、今問題提起しておかないと後悔してしまう危機感もあり、表現力の不足や稚拙さがあると思いますが、何度も書いてゆくつもりです。
その上で、批判・意見をお願いしたい所存です。

前回の「なぜ私は自殺していないのか?」という文言は、自殺しようとしている人、自殺した人の問題という限定された問題ではなく、自分の問題として曳きつける考え方の提案にしたかったのです。

なぜ彼は?や自殺者がと考えがちになる問題を、「自分」の問題として引き受けるには、どう考えたら良いのか?と言うのが、私の考えてゆく鳶口であり、立脚点であるのです。

今結果として生きていることは、「自殺」を選択しなかったということで、生きている様々な選択の中の一つである「自殺」を選んでこなかったのはなぜか?と考えると、他者の問題ではなく自分の問題として、少し近づけるかもしれないと思ったのです。
他者の死の問題ではなく、自分の生の問題として自殺を考える、自殺を選択しなかった理由を問うことによって、生からの逆照射から自殺の自己性を炙り出してゆきたかったのです。

別な意味で言うと、具体的に死にたいほどの悩みが無かったとか、死ぬ勇気が無かったとか、死にたくなった時に友達に救われたとか・・・・と考えるとすれば、それは言葉を返せば、死にたいほどの悩みがあれば、死ぬ勇気があれば、友達がいなければ、私は死んでいた、死んでいると考えて欲しいのです。
と同時に、特別な人たちの問題ではなく、自分の問題でもあり、すぐ身近な隣人の問題でもあるのです。

前回のもう一つの提言は、自殺は社会要素の強い死である、ということです。
イギリスの自殺予防対策や流行自殺の論文などを読むと、自殺しか考えられない精神状態になった時や、うつ病罹患時の脳の情報処理量は極端に減っています。
その減った情報の中に、つい最近報道された自殺の方法が残っています。
そして「自分の死」を他者に分かって欲しい気持ちもあり、社会報道されたその方法を選ぶ確立が高くなり、さらに流行度が高まり、次の人の脳裏に強く残るのです。
このメカニズムは、欧米では周知の事実で、マスメディアと連携して詳しい自殺の方法や経緯は報道しないようにしています。

人が個人的な悩みに陥ると、本人の意思を超えて社会の枠組みの選択肢に支配されるという悲劇がここにはあるように思います。
社会からの疎外感や無理解に苦しみ、究極の個人選択の解放を願った時、皮肉にも本人を孤立化させた社会の手の平で踊らされてしまうという悲哀が、死者に鞭打ちます。

ALSの人工呼吸器の拒否や尊厳死など、人間が純粋に本人の意思で死を選ぶ時、このうつ的、衝動性の情報減少の中での社会要素の死を選ばせないように、数ヶ月の継続的死の意思を確認するのが条件にあります。
うつ的心理状況や衝動性を排すると、意思による死者の数は随分と減るのです。
逆に言えば、自殺者3万人のほとんどが、衝動的・視野狭窄の状態に陥った時に社会的援助が無く、亡くなってしまった人でもあります。

自殺者の中で、純粋な自分の意思での死の選択者とうつ的状態で行ってしまった自殺者は、分けて考えなければいけないような気もします。
しかし、ドストエフスキーが描いたような意識や思想重視に立った近代人間像の、それこそ意思による死の選択者の想定は、もっと慎重に考えなければいけないと思っています。

死の選択に導いた条件は、本当の意味で不可変だったのか?不治の病が治る可能性あれば、意思の決定は覆されなかったのか?自己の尊厳を守るための死とは・・・・
私自身としては尊厳死は認めていますが、現実的には0人であることを願っていますし、その選択をしなくて良い条件模索を可能な限り続けるべきだと思っています。

人が自殺者の意思の問題を言う時、この意識的な人達を念頭に言いますが、現実的にはほとんどの人達が、思考狭窄の衝動的でうつ的な自殺を試みているのです。
この人達を思い留める事は、可能だし、社会の責務と考えてもいます。
「死」の結果は、不可逆であらゆる可能性を奪ってしまいますから・・・

どんな理由があろうとも、人が死んでしまうのは、悲しいです。
死ななくてもいい人が死んでしまうことは、悲しさに後悔が加わります。
死なない人はいませんから、悲しさは無くなりませんが、死ななくてもいい人が救われるのなら、後悔のない悲しみの中で我々は死者とともに生きて行くことが可能です。

悲しみは、記憶の花になるけれど、後悔は、ただ時間を殺すだけなのです。
(2005年7月)

「月からの使者」

ここ数ヶ月、杖をついたおじいさんが来店してくれます。

ゆっくりと店内を回り、棚の本を指差しては「これは、幾らですか?」と尋ねられ、「はい。1200円です。」と答えると、「なるほど、1200円ですね。」と言っては、また店内を一巡して、同じ本を指差し、「これは、幾らですか?」と・・・・

この受け答えが、一時間近く十回ほど繰り返します。

90歳近くの年齢になっておられるようで、認知症(痴呆症)を患っているのでしょう。

このような方に物を売るのは、とても難しいです。
何度も何度も値段を聞かれるのは、全く苦にならないのですが、限られた年金の中からの支出でしょうから、無駄だったり納得の意識が少ない買い物にならないだろうかと、心配になります。
かと言って売らないのも、本人の選択の意思を否定しているようで、それもできません。

聞くと家は近くのようですので、私が荷物を持ちますと申し出て、自宅まで一緒しました。
家を教えてもらい、手前の公園で一休みしてもらっている間、一足先に私が家を訪ねて、家人に夢屋の名前を告げ、本を売りますが高額だったり迷惑になるようでしたら、連絡していただければ返金しますので、遠慮なく言って下さい。と話をしてきました。

その足で公園に引き返し、ベンチに座りしばらく話をしました。
戦争時代のこと、おじいちゃんが私ぐらいの年齢だった時のこと、身体のことなど・・・

「ところで、いつも買っていただく本は、科学や宇宙関係の本ばかりですが、科学関係のお仕事をされていたのでしょうか?」

「いや〜、そういう訳ではないのです。ただ、宇宙の本を眺めていると、少々嫌なことがあったり言われたりしても、腹が立たんとですよ。なにせ私達の尺度なんて、宇宙に比べたら本当に小さいことですからね。」

「全く仰るとおりです。小さいですね。」

「宇宙は、良いですな〜」

私にとっては、おじいさん、あなたが宇宙そのものです。
ありがとうございます。
(2005年6月)

「逆さ壺の底は恥じらい」

鍬を握るのは、何年ぶりだろう。

二十数年前に大分の山奥で麦畑を開墾していた時以来だろうか?
いや、奈良で障碍者の作業所を運営しながら、近くの畑を耕していた時以来だろうか ?
北九州に帰ってきて、知人の土地をむやみに掘り起こしていた時以来だろうか?

そして今、小さな庭の片隅にひたすら穴を掘っているのである。
畑にするという名目もあるにはあるが、アパートの基礎のために投げ込まれている大 きな川原石と砂利ばかりの土に、畑もなにもあったものではない。
一鍬入れる度に石に跳ね返され、手を突っ込んで取り出した跳ね返した石の小ささに 驚き、またゆるりと鍬を振り上げています。

隣の小さな子ども達は、面白がって私の周りを飛び跳ね、笑い声を上げています。
家人は、いつになったら畑になるのかと訝しく問い詰めるが、半分悪い癖が出てきた と諦め顔です。
畑のように盛り上がるでなく、ただひたすら深く穴を掘り、周りに石くれの山が高く なってゆく。
雨が降れば池になり、翌日には泥の底が滑らかな光沢で「ここを掘れ、ほら、ここを 掘れ!」と誘ってきます。

胸筋が軋み、腰がうめき声を上げ、手にはマメが出来ていていますが、とても楽しい のです。
なぜ掘っているのか?とか、いつまで続けるのか?とか、何も考えていないのです。 土を相手に自然回帰だとか、自給自足の循環社会とか、無意識の病的行為だとか・・ おいら、知りません。
鍬を打ち下ろし、スコップをザクリと突き刺し、よいしょと土を掬い上げるのが、楽 しいです。

気がつけば、我が身を横たえるに程よい深さと大きさの穴が出来つつあります。
いや、いや、ご心配なく。
初夏の心の酩酊でも、ホラー小説でもありません。
穴に何かを入れる為とか、健康の為とかの目的や理由からほど遠い、穴掘り作業を楽 しんでいるのです。

今日も仕事を早退して、「穴」に会いにいくつもりです。
(2005年5月)

「一枚のウィグルの空」

スカさんへ

今は、どの辺りにおられるのですか?
きっと、身体の重さから解放されて、心ゆくまで放浪されていることと思います。

スカさん、あなたは本当に最期までやさしく、最期まで不思議で、最期まで旅を愛する人でした。

誰に対しても敬語を使い、無遠慮で生意気な私にでも、笑いながら丁寧に応えてくれました。
スカさんを見送った晩、奥さんも含めて皆さんと食事をしたのですが、誰一人としてスカさんが怒ったところを見たことないと話していました。
いつも不平不満を当り散らしている私からすると、そんな人間がいることが信じられないのですが、スカさんの中での他者は、怒りをぶつける対象ではなく、どこか風や雲のような尊い自然物の一つだったのかもしれませんね。

若い時から旅を繰り返し、行く先々で数知れない仕事をこなし、旅先で多くの人達と交わり、話しているとどこにそんな時間があったのか考えられなくなるほどの経験を積んでいるのに、過去のことを多くしゃべろうとはしませんでした。

私などは、ことあることに昔の旅の話をするのですが、考えてみると自慢のように旅を語る人は、もうすでに旅を止めた人なのでしょう。
いまだ旅している人は、昔歩いた路を思い出すよりも、明日歩く路が楽しみで、空の色を読み、海を越えて聞こえてくる囁きに耳を傾けているのですね。

でもスカさん、旅は確かに多くの驚きや喜びを教えてくれますが、同時に生きていることの寂しさを否応もなく突きつけて来ます。
時には、一歩も進めないほどの寂しさに包まれるのです。

スカさん、あなたはどうして歩いて行けたのですか?
この寂しさは、どうしたらいいのですか?
病気のことを知った後でも、なぜ歩けたのですか?

スカさんが、最後の旅に出る2ヶ月前のメールで書いていた言葉を思い出します。

>旅とは、別な言葉でいえば「手放す」ことだ。
>死はすべてを「手放す」ことだから、
>人はその練習としての旅にでるのである。

>そうおもいながら旅の準備をしています。


昨年は桜前線を追って、東北まで行ったそうですね。
旅先から送られてくる写真が、とても楽しみでした。

今年も桜を追って、追って、追って・・・・とうとう手が届かないところに行ってしまったスカさん。

そちらの桜は、どうですか?
(2005年4月)

「完落ち」

山頂の短大に本を届けに行った時のことです。

事務所に本を納めて外に出ると、山の裾野はすでに夕闇に支配され、その影は音もなく足元に忍び寄っていました。
一つ、また一つと明かりが灯り出す様を眺め、心が静かに穏やかさを取り戻してゆくのを感じていました。

すると、一人の女子大生が駆け寄ってきて
「下まで降りたいのですが、送迎バスが来ないので、友達と一緒に乗せていただけませんか?」
と聞くではありませんか!
私は、突然のことに喜びの表情を押さえることが出来ずに、思いっきりおじさん顔でへらへらと
「ええ、もちろん!いいですとも」

2人の学生を乗せ、ゆっくりと山を下りて行きながら、ここは無駄口をきかず熟練のタクシードライバーに徹しようと心に誓いました。
程よい大きさでアリシア・キーズを流し、彼女のハスキーでソウルフルな歌声が、車中を満たします。

「今日の吉田先生、ちょっと変じゃなかった?」
「え〜!どこが〜普通だったよ〜」
「そうかな〜、だってホラ・・・」

「京子のカレシ知ってる?ちょっとアブナさそうだけど、かなりカッコいいよ。」
「ウッソ〜、知らない!きゃ〜見てみたい」

「元町に出来たケーキ屋さん、行った?」
「行った、行った!美味しかったよね。」
「だよね〜。今度の木曜日に知美と行く予定にしているんだけど、一緒にいく?」

タクシードライバーも、悪くありません。


彼女たちの希望の場所まで下り切り、車を停めました。
「ありがとうございます。」
「ありがとうございました。」

「いえ、いえ・・」
と返事しかけたその時です。

「きゃ〜。ドアが開かない!」
「私も〜!どうして〜!」

ちょ、ちょっと待てよ、ドアロック掛かっているんじゃないか?ロックを外せよ、ドアロックを!
と思いながら、後を振り向き、ドアロックを指差すために手を伸ばすと、彼女達は
さっと身を引き、怯えた目で・・・

暗くなってきた山の中、一見親切そうなおじさんだったから乗せてもらった車だったけど、
出ようとしたらドアは鍵がかかって、中から開かないようになっている!
そしてその男はゆっくりと振り向き、私達に手を伸ばして・・・・
間違いない!この男が性犯罪誘拐凶悪連続殺人者だ!助けて〜

うっそ〜!!!(私)

うっそ〜!!!(彼女達)

私はガックシと肩を落とし、何も言わずに手元のオートロックを解除したのでした。 学生達は「ありがとうございました!」と言いながらも、慌てて外に飛び出し、走り去ってしまいました。

親切なタクシードライバーから、性犯罪誘拐凶悪連続殺人者(?!)となった瞬間です。
どうぞ警察には通報しないで下さい。
(2005年3月)

「粉雪は、風景を覆い、個々に舞い落ちる」

交差点の途中で1円玉が落ちているのに気付き、拾おうかどうか迷い、結局そのまま通り過ぎてしまった。

「一円を笑う者は、一円に泣く」という言葉に逡巡したが、お金を拾ってポケットに入れる様がカッコ悪く思え、また1円ぐらいという気持ちもあった。

でもその後ずっと気になって、あとで見に行ったら1円は無くなっていた。

なぜか、ほっとした。

日曜日に、子ども達とたこ焼きを作った。

何年も前に100円ショップで9個焼きの鉄板を買っていたのだが、ついに使うことが出来て嬉しかった。

くるくるとひっくり返す先のとがった道具が無かったので、割り箸に爪楊枝をさして輪ゴムで留めたものを作り代用した。

私と息子ペアのたこ焼きは、形が不揃いで中身がべちゃべちゃだったが、娘とその友達ペアのたこ焼きは、こんがりと焼けてとても美味しかった。

家人が車をコンクリーの壁に擦り、無残な跡がくっきりと残った。

いつも内輪差を注意をするように言っていたのにと腹が立ったが、運転席と反対側なので普段は見えなくて、忘れてしまっている。

お弁当を買いに店を出た。

近くのお弁当屋さんと違う所で買おうと反対方向に歩いて行くと、ついこの間まで

あった和菓子屋さんが閉まって貸し店舗になっていた。

明るい笑顔でお客さんと話していたおばちゃんを思い出して、寂しい気持ちになってしまった。

結局何も買わずに、ホットコーヒーを買い公園で一服して店に戻る。

父が世界一周の船旅に半年かけて行こうと、少し恥ずかしそうに誘った。

半年も家を空けられるはずないじゃないかと苛立ちながら応えたが、嬉しくてニヤリとしてしまった。

父との残り時間も考えて、そうだな思い切って行ってみようかなと思った瞬間、夢から覚めた。

しばらく布団の中で、じっとしていた。

店で、単行本上下巻が2000円で売れた。

同じ本があったことを思い出し探したら、売れた本のすぐ近くに1800円で置いてあった。

お客さんには悪いけど、少し得した気になってしまった。

ずっと棚にある本で、ネットで見たら他店が3500円付けていたので、今度目録入力する時は3000円つけて出してみようと思いながら、数ヶ月そのままにしていた。

ある時お客さんがその本をカウンターに持ってきて、値段を見たら300円だった。

思わず手が止まり、まじまじと値段を見てしまった。

もの凄く損をした気持ちになった。

何かの拍子に大学時代の私の下宿が話題になった。

3畳つなぎの廊下のような部屋や、電気の無い本屋の倉庫に住んでいた事、一日中日が差さない暗い部屋やリヤカーで引越しした話を家族は大笑いで聞いていた。

話していながら、とても穏やかな気持ちになって、私も笑っていた。

知人の見舞いに病院に行った時、エレベータから降りようとすると車椅子の人がいたので、ドアを抑えて乗り込んで来るのを待っていた。

入れ替わって外に出た私に、車椅子を押していた女の人が頭を下げ、ちょっと遅れておばあちゃんがゆっくりと頭を下げられた。

そのお礼の気持ちとエレベーターに満ちた二人の雰囲気に、私も静かに頭を下げた。
春は、すぐそこです。
(2005年2月)

「百代の過客」

当店には、外国人の人達もよく「覗き」に来ます。
長崎だからなのか、ごちゃごちゃと色んなものが積みあがっているのが珍しいからなのか分かりませんが、興味をそそられている事だけは確かなようです。

英語、中国語、韓国語、スペイン、ドイツ・・・全く見当も付かない言葉をしゃべる人達も多いです。

私ははっきり言って、英語はほとんどしゃべれません。
中学1年生レベルの単語と「ジスイズアペン」の構文を駆使して、コミュニケーションを図るのです。
お互いに笑顔を浮かべたまま、ダイナミックな身振り手振りで、

「ペラペラ・・・・・」
「アイキャンノットスピークイングリッシュ」
「OK!ペラペラ・・・」
「ア〜・・・アイキャンノットアンダースタンド」
「OK!ペラペラ・・・」
「ア〜・・・・ハウアーユー」
「ファイン!!」・・・・

自分でも凄いと思ってしまう時があります。
それを観ていた他人は、驚愕すら感じているようです。
あの単語群とめちゃくちゃな文法で、延々と会話が続くのですから。
(「自信がわきました。」と言う感想が多いです・・・)

外国の方の根気と寛容がなせる業なのでしょうが、話しているとなんとなく相手の言いたいことが想像でき、それに対して返答すると、大笑いしながら相手も返してきます。

シンプルな単語で語られる内容は、シンプルな話になるとは限らなくて、より複雑になったり、お互いが勝手な想像で違う話を進め、延々と話していた挙句出てきた単語一つで、「オ〜〜〜!」とまた共通の道を歩み始めることも多々あります。

国のお母さんはこれが好きなんだとか、イタリアで待っている8歳の息子へのプレゼントだとか、観光で長崎に来て今度は香港に行くとか、台湾の地震の時は酷かったとか、スイスでもポケモンカードが流行しているとか、漁船に乗っていてロシアに帰るのだとか、韓国でも「冬ソナ」は話題だとか、大学の休みを利用して原爆関連を調べに来たとか・・・・

様々な背景を持った人間が、違った背景を生きてきた人間と出会い、別れます。
そして別れた後、出会った時間と相手の笑顔が、各々の背景に記憶されるのです。

英語をしゃべれない長崎の変わったオヤジの記憶が、今も世界を旅しています。
なんと素敵なことでしょう。

「ハブアナイストリップ!」
(2005年1月)

「座布団の上の楽」

今年もいろいろな事がありました。
1年が365日あって、今日のような一日がこつこつと積み上がって、とりあえずの一区切り。
今日を365回も費やしてしまったと考えると、何か自堕落ぶりが恥ずかしくなりますが、中には心踊り楽しく過ごした日も多く思い出され、能天気な私は良い事ばかりが過剰にポイント高く、年間総括では毎年ながら「まあ、まあ、こんなもんでしょう。」に落ち着きます。

来年も目指すは、「まあ、まあ、こんなもん」

ただ近年、世相を見ても身の回りの動きを見ても、私の能天気採点ではちょっとカバーしきれないほど、「言い知れぬ影」が色濃くなってきているように思えてなりません。

これが何なのか、何故なのか、単に経済的なものなのか世界動向なのか、はたまた意識の変容なのか、私には皆目見当も付きません。

ここ数年、分からない、分からないと言い続けながら、貧弱な想像力を精一杯広げて

言葉を弄しても、その外から驚愕の事件やデータが、あざけるように降って来ます。
やれ、やれ・・・とも言っていられない様な切実な災難が、いつ我が身や我が家を襲うとも限らない気になってしまうのが、正直なところです。

子どもの時や大人になって新聞紙上の事件を見ていた時、どこか自分だけは大丈夫なような特異点を感じていたのですが、この境界を取り払われたような不安が常にあるのです。
もちろんこの「境界」自体、幻想でしかなかったのですが、幻想として境界を維持していた社会的システム(意識元型)が、失われてきているようにも感じます。

おっと、また迷妄癖が始まった。

多分来年も、この性分は変わらないでしょうから、分かりもしない手探り遊びを続けてゆくと思いますが、ただ一点来年に期する事があります。

「生きていること、それはそれだけで充分苦しく、孤独で、哀しみに満ちているものだ」

そんなこと、わざわざ言葉にする必要もなく、大前提であったはずです。
しかし、今一度ここで確認しておかなければいけない欲求に駆られるのです。
実存している事自体、苦悩の存在なのです。

世界は、安易な癒しや愛の看板が所狭しと立ち並び、誰でも彼でも握手を求めて手袋をはめた手を伸ばしてきます。
苦しみや寂しさは、外れくじを引いてしまったかのように、慌てて水洗トイレで流し、その後には芳香剤を撒くことを忘れません。

確かに楽しい事は多いに越した事は無いでしょう。
ただ、この楽しい事が「苦痛」を基層にしたものではなく、「排除」した上で成り立った「楽しい事」が、蔓延している気がするのです。

真の「楽しい事」が何なのか問われると、心許なくなってしまいますが、求めるなら

「生きていることは苦しい」から、「だから」この一瞬の「喜び」は代え難く、尊く、ありがたい「生」に邂逅したいものです。

皆様の幸多からんことを、お祈り申し上げます。
(2004年12月)

「空の青と海のあを」

夜になると奇妙な行為を・・・・

それは毎晩というわけではないのです。
ある時は数日続く事もあれば、ふつりと忘れ去られたように途絶える事もあります。
が、どこからともなく湧いてくるように、またその行為は始まるのです。
「うっ!」とか「ふ〜」とか「んが!」とか言いながら・・・

家族は、存在していないかのように、テレビを見たり本を読んだり・・・
たまに横を通る時に邪魔そうにする事はあっても、文句も言わず見守ってくれています。
初めの頃は、「それって、なんか意味あると?」とか「ペットボトルが邪魔なんですけどぉ〜」とか言ってましたが、諦めてしまったようです。

全て自己流です。
するのは、映画かテレビを観る時に限られます。
用意するのは、水を満たした2L入りのペットボトル2本。
しなければいけないような義務付けはしない、真剣にならない、時間も決めずに飽きたら止める、形もやり方も何もなし、やり方は「身体」に聞く!
イメージは、「伸ばす」「固まりをほぐす」「ひねる」「ちょっと痛いが気持ちいい」です。

数年前から寒くなると背中と腰に激痛が走るようになったこと、店でPCの仕事をしていると、知らぬうちに腰の部分で折れて、おばあちゃんが道端で座り込んでいるような姿勢になっていて、背筋を伸ばしている事が持続できなくなってきた事、PCの時間が長くなってきたので、肩こりがひどくなってきたことなどから、考え付いたのがこの運動なのです。

鍛えるのが目的ではないので(結果的に筋肉の補強にはなっていると思いますが)ダンベル運動のように持ち上げの反復運動をしているわけではありません。
ペットボトルを持ったまま、頭の後ろに手を回したり、上体を伸ばしたり、身体をひねったりが基本動作になります。
ペットボトルの重さの分、身体に負荷がかかり無理をしない程度に、伸ばしてくれるみたいです。

身体が衰えてゆくのは仕方が無いといえば仕方ありませんが、身体の不調が直接的に心の不調に繋がる自覚が年を追って増してきているので、心だけのケアでは覚束なく感じているのです。
心と身体は、2つのようですがどうも複雑に絡み合っている存在のようです。

自分の両手で握手してみると、右手が左手を握っているのでしょうか?それとも左手が右手を握っているのでしょうか?

どっちがどっちと言えないそれぞれの手が、相手の手を確認しあいながら、ゆっくりと力を入れあっています。
多分、心と身体はそんな関係なのだろうと思います。

心の方が「がんばって」ぎゅっと握ると、身体が痛がります。
身体が勢いついて「ガンガン飛ばす」と、心が痛がります。
心と身体が、優しく、ほど良い力で握り合って、ほっと安心するし「気持ちがいい握手」ができるのだと思います。

身体が痛がっている時は、心の力を抜いてあげましょう。
心が痛がっているときは、身体の力を抜いてあげましょう。

明日の朝は、きっと良い天気です。
(2004年11月)

「氷雨は矩形の樋を行儀良く」

う〜ん。なんと言っていいのか分かりませんが、日々が淡々と流れていってしまいます。

毎日基本的な仕事の動きをして、その場その場をやり過ごし、問題があってもそれなりの対処をして、帰って家族とご飯を食べ、寝る前にぱらぱらと本を読み、気が付けば翌日の仕事に復帰しています。

別に大きな悩みも無く、足らない事ばかりですが、それはそんなもんだと苦にもなりません。
それが幸せだよと言われると、それもそうかなと思いますが、どうも心底得心もしないのです。

こんな風に言葉で心情を表現すると、なんかうつ的心情になっているように読めるのですが、ちょっとそんなのとは違うようです。

大過なく決まったリズムで日々が送れている事が不満だといえば、自分でも贅沢だと思います。
充足感が無いんだと言えば、そんなこと知った事かと叱られるでしょう。
楽しみがないのかと内省すると、自分の楽しみばかりをしているようです。

他人に気を使うわけでもなく、勝手気ままに弁を弄して、興味のおもむくままに好きな本や趣味に時間を使い、あまり生産的でない仕事ですがそこそこにこなし、家族は大病もなし・・・
いいじゃないですか。良いです。問題なしだと思います。

甘えるなとか、お前のいつもの退屈感だとか、日常に倦んでいるじゃないかとか言われそうですが、確かにそうかもしれません。
しかし、そんな気分のどこに社相の全体的な背景も感じているのです。

毎日、個人の身の回りに新しい事件が起き、新聞やテレビの中でも事件が起き、代用不能な絶対的事象が起きているのに、不可蝕感を拭えません。
流れてくる情報感情の単色に簡単に染められる顔は、刹那に感情を踊らせますが、啼き声が一寸先まで届かず足元に転がり、無表情に跨ぎ越しては、黙々と歩んでゆきます。

時代や社会が重層的非決定な様相を帯びているのだ、と言った思想家がいましたが、まさにそんな中で生きてゆくというのは、この不確定を引き受けると言う事なのでしょうか。
そんな感慨もまた、非決定な安眠に陥ってゆきます。

最近、爬虫類だった頃の夢を見なくなりました。
(2004年10月)

「夜明け前の青くび大根」

何回失敗しても、いくらやっても上手くいかないのに、性懲りも無く「今度こそは!」と思って・・・・止められないことがあります。

他人のそんな面を見て、ある人に相談すると
「ああ、それは一種の病気みたいなもので、彼(彼女)の精神の影みたいなものだよ。心の奥底のそのまた底の、さらにその下あたりで気付かないと、治らないんじゃない。」
と・・・・・

普通そんな心の奥底を見詰めたり、悩んだりしないから(もちろん失敗のケースにもよりますが)言外に治らないという事なのだなと理解するのであります。

お金のこともあるだろうし、女遊びや性根の悪い男ばかりを好きになったり・・・・

前にもこのメールで書きましたが、我が家のテレビが調子悪いのです。

人間というものは、急激な変化には驚きや戸惑いを感じますが、ゆっくりとじわじわと変化するものに対しては、とてつもなく寛大で平穏無事に「悪化」してゆけるものなのです。

今年の夏は、夕立による多少の湿気も吹っ飛ぶ暑さで、エナメルの配線にすぐ微量な電力が流れ、画面を立ち上げてしばらくすると声が出てくるので、何とかやり過ごしてきました。
声が出てくるまでの時間が、少しずつ遅くなっている事に、さして気にもかけずに・・・・

先日の台風はひどかったです。
台風接近の気圧のせいか、前日から1時間つけっぱなしにしていても、ウンともスンとも言わず、無音の画面に映る荒れ狂った浪が岸壁を叩きつけているのを見たり、マイク片手に顔を歪ませ必死に叫んでいる表情だけのレポーターを眺めていました。地球最後の日のクライシス映画を、スピーカーが壊れている映画館で観ている雰囲気で、途中で席を立つように、台風情報のテレビも消してしまいました。

台風のつめ跡は、我が家のテレビだけに残したようで、その後全く音が聞こえなくなってしまいました。

だいたいがあまりテレビを観ない我が家は、テレビがあることを忘れてしまったように、何事もなく日々を過ごしていたのです。

しかし、とある日曜日私は赤い道具箱からドライバーを取り出し、「家族のために」の御旗を掲げ(家族は誰も望んでいなかったようですが)テレビ解体及び修理の大事業を始めたのです。

思えば学童時の時計解体から始まり、大小様々な物を分解したものです。泣き叫ぶ子どもを押しやり、電動玩具の構造を説明してあげるとバラバラにして、二度と動かなくなったり、プレイステーションの蓋が引っかかるとの理由だけで、禁断の園に足を踏み入れ、ゲームソフトが埃をかぶってしまった事も、ビデオカメラに店のレジ、ビデオデッキはもちろんの事、他人の家の扉が軋むと言うので扉ごと外してしまった事もありました。

今までの失敗は、今回のテレビ修理成功のためにあったのです。(多分・・)

テレビを部屋の真ん中に引き出し、後ろを慎重に外して、ブラウン管からボードを切り離し、配線と意味の分からないソケットを捻り・・・掃除機の先を突っ込むと、ホースにカラカラと音を立てて吸い取られてゆく未確認部品、ドライヤーで熱風、冷風を交互に吹きかけ、あっちをいじり、こっちを持ち上げ、流れる汗を拭いもせず・・・・無事完了(!?)しました。
直ったのを確認するために、開いたまま電源を入れると、バチバチと火花が飛んで、焦げ臭い煙が部屋を満たしてゆきます。
(良い子の皆さんは、決して真似をしてはいけません。)

慌てて元通りに(?)ブラウン管の下にボードを差し込み、後ろを閉めて、恐る恐るスイッチを入れると、画面に映る女子アナウンサーの開いた口と同調するように、笑い声が聞こえるのです!

「お〜〜〜!!!」

スイッチを消して、またスイッチを入れると、すぐに(!)声が出ます。周りで笑っている人の声も聞こえます。
チャンネルを切り替えると、映画のカーチェイスは轟音を上げ、教育テレビでは朗々と古文が読み上げられています。

「すごーい!直ってる〜!」

と、家族は歓声を上げ、私は得意満面です。

テレビは、画面をつけて10分か30分しないと音が出ないと思っていた我が家に、私は「革命」をもたらしたのです。
テレビは、スイッチを入れると、すぐ音が出るのだ!
見たい番組の30分前からテレビをつけて、助走をつけなくても、その時間に電源を入れるだけで、音声付きの番組が見れるのだと!

そして、テレビをつけて10分すると、音が消えてしまう(!?)という事も・・・・
(2004年9月)

「ひまわりの切り株」

夢屋開店当初から3年間、一緒に仕事したSさんが、亡くなりました。

数年前に大学病院で新薬の副作用に襲われ、全身の皮膚が剥がれ落ちる重態になり、一時は命が危なかったのですが何とか生還されて、それからも時々店に寄ってくれていました。

先月も店に来て、夏休みが終わったら我が家と当時一緒に働いていたYさんとの6人で、一緒に食事をしようと話していたばかりでした。

「その頃に臨時収入が入る予定だから、みんなにおごりますよ。美味しいお店も知っているから、行きましょうよ。K君もMちゃんも大きくなったでしょうね〜あの頃は、こんなに小さくてカウンターの下にもぐったり、絵を書いたり、可愛かったですよね〜会いたいな〜」
と笑いながら・・・

それが最後の会話になってしまいました。

いつも笑顔で、誰にでも優しく、情に厚くて涙もろいSさん。
Sさんの方が年上にもかかわらず私を立ててくれ、他所に行った後も気にかけて覗いてくれては、1冊2冊と本を買ってくれていました。

店が定着するまでの時期、私はバタバタとしていて気持ちに余裕が無く、とんでもない無理難題を押し付けていたように思います。
それなのに嫌な顔一つせず、汗をかきながら苦手なレジを打ち、本を拭きながら私やYさんに声を掛けてくれていました。

原爆の荒野を彷徨い、自社ビルを建てるまで大きくした事業も頼まれた保証人になったために失敗し、借金と病気のため家族が離散して、大変な経験を何度も負わされたのに、決して他人の悪口は言わず、いつも相手のことを考え、心配りを絶やさない方でした。
今更ながら、ちょっとまねできない事だと心底思います。

店を訪ねてくれる度に、2人であの当時の話をして、いつも私が覚えていない事を教えてくれて、「ああそうだった。そんな事もありましたね。」と話しながら、私は「心のしこり」を溶かしてもらっていたのです。
Sさんとの会話は、本当に楽しみでした。

助けてもらうだけ助けてもらい、何も恩返しもできなかった悔いが残ります。
この悔いと寂しさは、残されたものの務めとして、抱えて行きたいと思います。

Sさん、もういいですよ。
ゆっくりと休まれてください。
ありがとうございました。
(2004年8月)

「津軽の空」

小学4・5年生の頃、官舎の一画にある炭鉱の廃屋で毎日遊んでいました。

そこには、サイロのような建物や石炭を貨車に乗せるあり地獄のような錬舎、地中深く降りてゆく水没した線路跡、そして外壁だけを残した抜け殻のような建物跡があったのです。
拾ってきた片目の仔猫をみんなで育てようとして、秘密の隠れ場を作ったのも、石投げ合戦をして友達が耳の裏を切り大量の血が噴出すのを見て、怯えて逃げ出してしまったのも、ここでした。

そんなある日、友達と4メートルぐらいの塀の上をバランスをとりながら歩いていたのですが、いつもは問題なく通過できたある地点で、その日はなぜか一歩も進めなくなってしまったのです。
友達は、振り返りながらそんな私をしばらく冷やかしていましたが、しだいに尋常でない私の様子に慌てだし、そこにじっとしているように言い置き、人を呼びに駆け出して行きました。

私は、なぜ急に渡れなくなったのか理解できなくて、戻りたい大地を闇に覆い、空だけを朱に染め上げてゆく夕日を、塀の上から不安げに見ていました。

どれくらい塀の上でしゃがみ込んでいたでしょうか、少し気持ちが落ち着いてきたので打開策を考え始めました。
そして、この高い塀もぶら下がって自分の身長分を減らし、そこから飛び降りればどうにかなるのではないかと考え、ひとり塀からぶら下がってみたのです。
ゆっくりと身体を下ろし、手の平に食い込むコンクリートのでこぼこを我慢して、首をねじって下を見てみると、そこは自分が想像していたよりも遙かに高く、だらしなくぶら下がった足からまだ数倍の距離があることが分かりました。

瞬間的に、このまま手を離すと間違いなく「死ぬ」と私は確信したんです。
と同時に、ぶら下がっていた手が痛みと力の震えでほとんど限界である事も分かりました。

「どうしよう。どうしよう・・・手が痛い!助けて〜!」

「ああ、もうだめだ。」と諦めの心が支配して手を離そうと思った瞬間、猛烈な恐怖が身を包み「イヤダ!いやだ!」という一念が身を貫き、信じられないような力で身体を引き上げ、塀をよじ登り、這いながら向こう側に渡っていたのです。

地面に足を下ろし、へなへなと力なくしゃがみ込んだのは、友達がお袋を連れて戻ってきたのと同時でした。

「なんだ渡れたじゃないか。騙された〜」と笑う友達に、
「死ぬとこだった。本当に!・・・・見てしまったよ。」としか言えませんでした。

今でもあの不安と恐怖は、塀の上から見た信じられないほど美しい夕日とともに、私の心に刻み込まれています。
(2004年7月)

「犬も食わねど高楊枝」

こんな事を公にしても露悪的な意味しかないように思いますが、どうもダメなようです。

結婚してから15年、何度も危機がありましたが、自然と時間が解決してくれたり、ごまかしたりして何とか繋ぎとめていました。
他の家庭に聞いてみても、「どこもそんなものだろ、本当にダメな時は仕方ないけど、なんとかならないのか?」と優しく言ってくれます。
根本的な原因が何なのか、正直なところ分かりません。

ここ数年は、頻繁にトラブルに見舞われていました。
些細なことで沈黙してしまったり、急に大きな声を上げたこともありました。
いつもその後で頭を抱えてしまうのですが、私だけの努力や反省でどうなるわけでもなく、情けないことにじっと時間が過ぎるのを待っているのが、対処方法だったように思います。

元来、気分屋なのでしょう、雨が降ったり曇り空の日が続くと、暗く沈黙の時間が長くなります。
気圧や湿度が関係するのかもしれませんが、そんなことで勝手に左右されたんじゃ、周りはたまったもんじゃありませんよね。
でも、自然の中にいるってそんなもんだよ!と、開き直って私が説明しても、家族は眉をひそめるばかりです。

もちろん調子が良い時期もあり、他人様から見れば何の問題もない家庭に見えていたでしょう。
どこの家庭でも小さなトラブルは抱えているもので、そんなものは愚痴で解消していたり、外から見えないようにして自分たちで解決したりするものです。
夫婦だけならもっと早くに結論を出していたのかもしれませんが、子どもがいるので問題を先延ばしにしていた感が拭えません。

結果的には同じ結論なのでしょうが、我慢してきたりみんなで少しずつ気を遣いあっていたことが、とても愛しく思えてきます。
お互い口には出さないけれど、心の奥底でもうダメなんじゃないだろうかと思っていた時に、ひょんなことで持ち直して、ぱっと笑顔が広がったこともありました。
いま思い出すと目頭が熱くなる思い出です。

まだなんとか方策があるのではないかと、祈るような気持ちがあることも事実です。
私が頭を下げてすむのなら、床に頭を擦りつけても良いとさえ思っています。
しかし、知らぬうちに再起する決定的な時期を逸したように思えるのです。
情けないです。

すみません。
こんなことを皆さんに言ったからって、どうなることでもないし、皆さんを不安にさせるだけだということも分かっているのですが・・・

でも、しゃべって少し気が楽になりました。

楽になると勝手なもので、まだ修復の余地があるような気にもなってきました。家族全員の将来に関わることですから、私のプライドや見栄なんてちっぽけなことです。
腹をくくって、頭を下げます。お願いしてみます。謝ってもみます。

「もう一度だけ・・・お願いします!・・・私が悪かったなら謝ります。ごめんなさ
い!頭もこのように下げてお願いしますから、もう一度だけ・・・音を出して下さい。テレビさん。」
(2004年6月)

「春の嵐」

天からの来訪者は、ある日突然、我が家にやってきました。

なぜミルクが我が家の縁側の下で鳴いていたのか、どうやってここまで来たのか分かりません。
そんな疑問を口にしていたのも、ダンボール箱の中に寝床を作ってあげた1日だけでした。

後は「ほら、お腹すかせて鳴いているよ。」「可愛かね〜」「こら、そこは行ったらダメでしょ!メッ」「シッコがしたいと?おりこうさんね!」「フフフ・・・ほら、見てごらん。あがんかっこ(あんなカッコウ)しよるよ。」「こっちおいで!お風呂に入るよ!」・・・・

ゴロゴロです。
ミルクの喉ではありません。我が家全員が、喉を鳴らしているのです。

しかし、賃貸に住んでいる我が家は飼う事が出来ません。
大家さんは隣に住んでいるし、他の住人さんの手前もあります。
このまま政治家のように、隠し通す自信もありません。

辛い決断と嫌な役回りは、私と決まっています。
「我が家では飼えないから、誰か飼ってくれる人を探すか、遠くに連れて行って置き去りにするか、保健所に連れてゆくしかない。この選択の中でミルクにとって一番良いのは、ミルクを大切に育ててくれる人を探すことだと思う。だから、みんな心当たりのある人に聞いて探してくるようにしよう。」と・・・

でも、みんな知っているのです。
その人を探してきたら、ミルクはもう我が家には居なくなってしまうという事を。探さなくてはいけないけれど、探したくない気持ち、いつかは別れなくてはいけないけど、今は別れたくない気持ち、可愛くてたまらない気持ちが日に日に募ってくるけど、飼えないのです。


そして・・・・・・・別れも突然やってきました。
心から可愛がってくれそうな人が見つかり、ミルクは熊本へ。
娘と家内は決まったときから、流れる涙をぬぐおうともしません。

「お父さんを飼わないで、代わりにミルクを飼う!」

私自身、私が飼われているかどうかの突込みを入れる気力も無く「向こうの人、ミルクの代わりにお父さんが行ったら、受け入れてくれるかな〜」と言うのが精一杯でした。

本当に短い日々でしたが、我が家の心に一生住み続けるであろうミルクです。
(2004年5月)

「アンドロイドは電気鼠の夢を見るか?」

「安眠枕」なるものを娘が買ってきました。

どうも巷ではよく売れているようで、そんなことも知らないのと笑われる始末です。もちろんぐっすり眠れるに越したことありませんし、無呼吸症候群とかイビキ解消法などの新聞記事を眼にすることも増えてきましたが、子どもが睡眠について気に留めていることに、驚いてしまいました。
しかも、自分のお小遣いから3000円もの大枚をさらりと出して・・・・枕に・・・

私は、子ども時代はもちろんのこと、今でさえ布団に潜り込むと、あっという間に翌朝(!)になってしまいます。
夢を見た覚えも無く、何か騙された様な、損をしたような気分になるのに・・・・

言われてみると、睡眠はとても大事なことです。
睡眠や食事や排便をきちんと見つめることは、確かに見習わなければいけません。いつもいい加減で、「どがんちゃ、よか!」と言い捨てているので・・・

数日後、「お父さん、この枕使ってみたいでしょ。いいよ。貸してあげる。」と言うので、有難く使わせてもらいました。
が、どうも首のあたりがしっくりきません。
材質は柔らかいスポンジのようで、波打っている形態がミソなのでしょうが、どこに頭を置けばいいのか判然としなくて、小さな波に首を預けたり、ひっくり返して大きな波に頭をめり込ませたり・・・・
結局朝起きると、枕を跳ね飛ばし、敷布団の角を折り畳んで寝ておりました。

娘には「おかげで気持ちよく眠れたよ。ありがとう。」とお礼を言うと、「ああ良かった。それなら今晩から使っていいよ。私もようやく(!)ぐっすり眠れたんだ。」と・・・・

安眠枕は、安眠の大切さを悟らせてくれる枕だったのですね。

それからしばらくは私も使っていたのですが、ただの一度も枕に頭を乗せて目覚めたことがありませんでした。

今は、前の枕に戻して、ぐっすりと眠っております。

ちなみに私の枕は、子どもからもらった「くたくたピカチュウ」です。朝目覚めると、安心したように尻尾の上に頭が乗って・・・・
(2004年4月)

「ねぇちゃん!あちきと遊ばない?」

先月のメールを出した後、「徳さんの持病」は何のことはない、春になったというだけではないかと多くの人から指摘を受けました。
言われて初めて気付くのは本人ばかりなりという訳で、お恥ずかしい限りです。

むくむくと沸き起こってくる「家出症」も、定型への「破壊心」も、世界に対して尻を捲くり上げ叫びたくなる「てやんでぃ癖」も、全ては季節が巡って「春到来」を告げていたのです。

なんだ、なんだ。
もっともらしい理屈をこねても、動物の欲動を体裁つけていたに過ぎませんでした。へへへ・・・・
でも、そう気が付いて嬉しくなる私です。

そう、私は動物です!
いいですね〜。いつまでも動物でいましょうよ。

人間が動物であることは、分類上は当たり前ですが、なんか動物よりも別のような気がしていませんか?
つい視線がそんな風になってません?
動物界から、降りてしまっていませんか?
がんばったり、我慢したり、理知によって行動を決定したりしていませんか?

過度な動物愛護や万歳型のエコロジストにはちょっと共感できないのですが、人知なんかが及ばない生命の営みが支配する動物範疇に列席させてもらっていることを感じて、本当に嬉しく感じました。

心騒いで動物なり!

春ぐらい、人間やめて本能のままに背伸びしてみましょう!
(2004年3月)

「老婆は、一日にして成らず」

悪い癖が出始めました。

ある形が出来てしまうと、それを揺さぶって壊したくなるのです。

こんな風に書くと、いかにも変革者や創造者のように見えますが、何のことはない、日々の根幹にかかわるところは、大事に、慎重に、そして臆病に保持することを心掛けています。

よって、壊したくなるのはそれ以外ということで、でも、それらは壊しても快感を与えてくれないものでは壊しがいもなく、それなりに意味を汲んでいたものでなければなりません。
この意味も、大概は他人様には関係ないことでありまして、自己満足の満足感が多少なりともなければだめな、極めて個人的なバランス行為なのであります。

よって、勝手ながらこの「日頃の常」の超短文と「徳さんの感想文」を97年度分感想文のネット掲載に代えさせていただきます。
来月のことは、何も考えておりませんので、あしからず。
(2004年2月)

「冬のキリンは首を縮めるか?」

先日新聞に、20代の若い人たちに聞いたアンケートが載っていました。
「おばさんは30歳から」「おじさんは40歳から」

その判断が妥当かどうかは別にして、なるほどな〜と得心するところがあったのが正直な感想です。
そんな区分けの意味が何になる!とか、個々によって違うじゃないかなどと野暮なことを言うのをやめたら、そんなものでしょう。
女性が10歳も早く「おばさん」領域に組み込まれるように感じられることに、社会的な要素や身体的な若さ重視などがあるのでしょうが、30歳でおばさんと見られてしまうのですから、女性の人達は厳しい世界の中で生きているのだなと思いを新たにしました。

何をもって「おばさん」「おじさん」と判断するのかの基準は、「おばさん」が「人目が気にならなくなる」「色気がなくなる」などが挙げられ、「おじさん」は、「体形や肌つや」のほか「確実にギャグが面白くなくなる」ことで判断するということのようです。

私などは完全に「おじさん」なのでありますが、「体形」はいざ知らず「肌つや」を観察されているとは、考えもしませんでした。
「肌つや」・・・・・確かに・・・・若い時からの寝不足や不摂生によって浸潤された疲れや衰えが、「つや」の消失とともに表面に浮き上がり、細かい肌荒れとともに私の面相を形作っています。
しかし抗弁させてもらうとすれば、肉体的な衰えは、仕方ないのです。
もちろんジムに通い、ジョギングをし、充分の睡眠を摂り、タバコをやめて、心安らかな生活を心掛けたら、少しは見栄えは良くなるかもしれませんが、心の隅では「老醜」さを否定する価値観に違和感を覚え、「てやんでぇ〜ぃ!このシワ一本一本には、てめぇ達が束となってかかって来てもびくともしねぇ、ふか〜い知恵が刻み込まれているでぃ」と啖呵の一つでも言ってみたい衝動にかられます。
だから「肌つや」は、胸を張って開き直れるのです。

が、「ギャグが面白くない」は・・・・・グサリときました。

実は、数年前から家族との会話で「ダジャレ」が確実に増えていたのです。
自分でもあれ?って思うほど・・・ふと頭に言葉が思いつき、何も考えずに「ダジャレを言うのは、ダレジャ?」と・・・・
そして家族の呆れた反応・・・「でた〜」「はい。はい。」「寒すぎる〜!」「お父さんが機嫌が良い時は、これだもんね〜」・・・
本当に増えているのです。
ダジャレを言って和ませようとか、気を引くために努力して考えるとかではなく、頭にぷらりと浮かび、その連なりや言い換えの妙が面白く感じて、つと言葉に出てしまうのです。

どうして増えてきたのでしょうか?
密かにこれは、一種のクレオール(接触言語による混成言語)で自己内言語感と現前言語の触発によって生成されつつある現象ではないかとか、小学生低学年に見られる音声言語感の多様化や応用化に近く、ようやく私の言語感の力が抜けて第2次音声言語の多様化が始ったのではないかと思い、その後の展開を楽しみにしていたのです。

しかし、「お前のギャグやダジャレは、手前勝手な幻想ではなく、加齢によるおじさん現象なんだよ。」ということでした。
何故おじさんになったらギャグ好きになるのか、ダジャレが増えるのか分かりません。
自分に都合の良いように詭弁を弄するのは私の十八番ですが、思いつく理由が脳力の衰退や言語感覚の硬質化では寂しいですし、酸いも辛いも分かる年齢になり、積極的に社会の潤滑油的役割に身を殉ずるというDNAシステムが始動し始めたと考えても、侘しさが募ります。
かと言って、「おじさんになったからギャグを連発するのか?ギャグを連発するからおじさんになるのか?」と問答をすり替えて、煙に巻いても、鶏も卵も出てきません。

「ダジャレを言うのは、ダメジャ!」

やっぱり、寒い?
(2004年1月)

「白い巨塔」

「少しチクリとしますよ。」

突然40度以上の熱に襲われ、休日在宅医の病院に救いを・・・・

「軽く握り締めたまま、動かさないで下さいね。」
「はい。」

薄いピンクの白衣(?)に身を包んだ若い看護婦さんは、ぎこちない笑みを浮かべて注射器を構えています。

が・・・・針先は微かに震えるだけで動こうとしません。

・・・・・

えっ?いったい何が起こったのだ?
十数秒針先を見つめていた私は、ゆっくりと目線だけを上にあげて看護師さんの顔を見ると、看護師さんの目は真剣にその針先を見たままで、呼吸を整えています。

(ちょっ、ちょっと待って・・・・それって、あんた・・・・新人かい!)

私は思わずごくりとつばを飲み込み、眼を合わせてしまう事が怖くなって視線を下ろし、くっきりと浮かび上がった血管と、水溶液でぬらりと光る鋭利な注射針に意識を集中します。

さらに数秒・・・・沈黙・・・これは・・・苦しい・・・堪らない・・・もうだめだ・・・

「まっ、待って・・」

その瞬間、ちりりとした痛みが脳天を突き抜け、針は皮膚を裂き破り進入してきました。

「やりました。」

(「やりました。」って、あんた・・・)

「もう、大丈夫ですよ。」

注射器の中に鮮血が逆流し、血管すらも突破して生命活動の命脈に届いたことを知らせています。
彼女は大きく息を吸って、少し吐き出したかと思うと、すっと息を止めシリンダーをゆっくりと押し出し始めました。
ゆっくりと・・・見た目では分からないほどのスピードで・・・
黄色っぽい液と渦を巻いた赤い血が身をくねらせながら絡まって、微かに針のほうに押し出されているのが辛うじて見て取れます。
そう、辛うじて・・・
このスピードで、何時になったら全ての液が私の体内に入るだろう?
いや、そんな不遜な考えを抱いてはいけない、感謝しながら彼女の技術(!)に全てを委ねるのだ。
そう心で念じ、もう私には注射器を見ている勇気はなくなっていました。

目を泳がして書棚を見ると、昭和30年代に刊行されたであろう医学大全がずらりと並んでいます。
それがお医者さんの診断机のすぐ横にあると言うことは、困った時にはこれを手に取って診断を仰ぐのでしょう。
(日進月歩の医学技術において、昭和30年代は・・・)
机の上に現代医学必需品のパソコンが無いのはきっと、どこか他のOAルームにあると無理に思い込ませ(!)机の上に積み上がった雑誌はよく見ると医学雑誌ではなく、「中古車情報」「週刊女性」「女性自身」・・待合室に置く雑誌かと思うと・・・ヌードグラビア付きの「週刊ポスト」「週刊現代」「週刊プレイボーイ」等々・・・う〜む。
そうか!人知れず性環境の研究を精力的に続け、クラミジアなどの性病蔓延に警笛を鳴らす、現代の「赤ひげ先生」だったのか!
(と、信じたい。)

などと夢想に戯れていると、視野の隅でひらひらと手が泳いでいます。
なに?と振り向くと、例の看護婦さんが左手で注射器を持ったまま、身体を捻って右手で二の腕から外したゴムバンドを必死で取ろうともがいているのです。
針はちゃんと(!)私の腕に深々と刺さったまま・・・・なっ、何やってんの?

「先生!ちょっとすみません。取れないんです。」

はっと弾かれた様に先生は立ち上がり、慌ててゴムバンドを取って、腕に巻きながら

「この腕は、もう諦めたら?」

(もう諦める?何を?腕は、俺にはもう1本しか残っていないし、命はこの命一つっきりだぞ!どうした?あんた!)

「いや。大丈夫です。もう一回血管に刺してみますから・・・・あれ?・・・う〜ん・・・」

(あれ?って、かわいい声出している場合か!!漏れた液は、血管横の筋肉の中に蓄積され続けているのか?)

「私が代わりにやろうか?そこをどいて・・・・あっ、今また(!)入ったよ!そこ。
・・・よ〜し、そのまま、そのまま・・・そう!上手になったじゃないか!!」

(上手になったということは、今以前の「見事な治療」がなされたと言うことか?)

「はい。今度こそ大丈夫だと思います。」

(大丈夫です。でなくてだと思う、か・・・泣かせてくれるな〜看護婦さん)

しかし、結果的に私はこの診療に救われました。
あの高熱が、ウィルスだったのか、熱病だったのかは知りませんが、生死の間をさまよった注射1本で、すっかり「病」から脱却したのです。

ありがとう。看護婦さん。
あなたの勇気ある行動と、想像力あふれた看護の心で、「病」は一目散に逃げていったのだと思います。

ありがとう。看護婦さん。
でも、今思い出しても、うっすらと涙が浮かんでくるのは、何故なのでしょう?
(2003年12月)

「誰そ彼の独唱」

本年もお付き合いのほど、誠にありがとうございました。

年々身体や精神の衰えを痛感するこの頃ですが、時を同じくして少しずつ今までお世話になっていた人達との再会宴が重なっています。
学生時代からちょうど20年が過ぎ、人生の折り返し地点も振り返るとずいぶんと遠くになってしまったこの時期、なにか必然的な引き合いが起こり多くの人達との再会が実現しました。

経年の様相変化は仕方ありませんが、会えば以前と変わらない口調で話が弾み、昔話から現在の切実な問題まで時間を忘れて歓談に花を咲かせます。
そして気が付けば、そんな場と時間が私の心深い所の塊を氷解して、救われたような不思議な感慨へと変わっているのです。

初めはその事後感に戸惑ってしまいましたが、よく考えてみると修正に修正を重ねてきた人生の中で、その奥底だけはほのかな暖かさを持って修正の手を逃れてきていたのでしょう。
誤解が無い様に言っておきたいのですが、修正されてしまった現在がダメで、以前の私の方がピュアだという事ではないのです。
以前の私は今にもまして愚かだったと自認もしていますし、現在の生活の諦観を基盤にした面も否定しませんが、思ってもみなかった幸福感も確かにあります。

時間の流れの中で多くのことが変わり、自己弁護を繰り返し、現実に擦り寄り、それでいて妙な所で意固地になって空回りしたりはしますが、それはそれで自分なりには納得して積み上げたつもりでした。
しかし、その納得した領域だけではダメだったようです。

内界のどこか言葉の届かない所でひっそりと待っていた「それ」がいて、溶けることを欲し、ふとしたきっかけで溶け、その気化熱で「納得」と外「納得」の違和感を埋めてくれたのです。

私は、「本当の」「本質の」賛美者でも信望者でもありませんが、言語化できない又は現象確認されていない世界を否定するものではありません。
言葉に出来ない世界は、言葉の断片をその周りに寄せ集め不恰好なドーナッツを多く造り、それを積分したら無言語の世界がそこにちゃんと浮かび上がってくるのだと思っています。
空虚だけを取り出して食べることは出来ませんが、ドーナッツごと食べれば、穴も腹に収まるかもしれません。
「それ」と命名しなくても、その世界に邂逅できると思っています。

一つの「それ」が未だに欲し続け、他でもない旧知の人々と出会うことで、熱を発してくれたことが、本当に嬉しいのです。

老眼になったり、踏ん張りが利かなくなったり、徘徊したり(?)で年齢の重荷がこたえてきました。
しかし、季節の微妙な変わり目に気付いたり、おじいちゃんの手のシワが綺麗に思ったり、20代では分からなかった陰影に胸を突かれること等が続くと、少しは世界が立体的に見えるようになったのかと、自分の「心」が愛おしく思えます。年を経ることも良い事の様な気がして、今年一番の収穫でした。

皆様におかれましても、幸多き一年でありますように。
(2003年12月)

「93歳、まだ道半ば」

数ヶ月前から私の両親が、祖母の面倒を見ることになりました。齢93歳、例にもれず痴呆が見事に進行しています。
どうも、会話が出来る時と完全に自分の世界に行ってしまっている時が混ざった、まだら状態のようです。

四国で長い間生活していたのですが、祖父が亡くなったのを機会に、関東の長男家が面倒を見ていたのです。
長男家では、嫁さん側の母親とともに、高齢者同士助け合いながらボケることも無く元気で生活していたそうです。
しかし、相手のおばあさんが心不全で入院したため、一人となってしまい、あれよあれよと痴呆は進行してしまいました。
8月に両親が会いに行った際、祖母はどうしても母について行くと言って聞かず、長男家でも痴呆の混迷でほとほと参っていたので、長崎での新生活と相成った次第です。

当初の張り切った母からの電話は、すぐに介護の窮状を訴える電話に変わり、父からの声を潜めた混乱報告がその生々しさを伝えます。

目を離すとすぐに家を出て、四国へ帰宅の旅に出ようとしたり、外食すると驚くほどの食欲で見る見る皿を空けてゆくかと思えば、トイレまでは間に合わずに、笑顔のまま排便してしまいます。
突然大声をあげたり、部屋の窓から飛び降りようとしたり、何度紹介しても「どちらさんでした?」と尋ねたかと思えば、何処にそんな力があるのか一抱えもある石を持ち上げたりしているそうです。

地方の裕福な造り酒屋の娘で育った祖母は、幾つになっても気品を失わない優しいおばあさんでした。
中学時代に寝袋背負った四国旅行の途中で立ち寄った時も、結婚して顔見せに行った時も、子どもが生まれて両親と共に孝行旅行に行った時も

「ノリヒサさん、良いんですよ。あなたの好きなようにしなさいね。おばあさんは、あなたが好きなことをして生きていることが、一番嬉しいのですよ。」

と言って、いつも目を細めて笑っていました。

好きなように振舞っているのは、その当時も今も変わらないのではあるが、少しは外部との摩擦がないと己の身勝手にすら自信がなくなるのも事実で、この様に全幅の信頼で「好きなように生きてゆきなさい。」と言われるほど、厳しい言葉もない気もしていました。
だから節目節目で祖母の言葉と笑顔を、いただきに行っていたのだと思います。

母は、完全看護する側になって初めてその迷妄ぶりに驚き、かつての祖母になって欲くて必死に諭し、言い聞かせていたそうです。
しかし、それが祖母の世界の混乱を引き起こし、祖母は鋭い否定の世界を創出し始めたのです。
両者が否定し、両者が「両者の世界」を絶対的に押し付けあう中に、共感は生まれません。

そこで母に、どんなに的外れな話でもとにかく祖母の世界を否定しないで聞いて、認めて会話するように言ったところ、少しずつ祖母は落ち着いてきたようです。日によって波はあるようですが、グループホームも利用して、四国のおばあちゃん健在なり。

「そうです。おばあちゃん!おばあちゃんも好きなように生きていったらいいんですよ。」

以前に読んだネイティブ・アメリカンの本に、確かこんな言葉がありました。

「人は生まれてくる時に、自分は泣いて、周りの人が笑っています。だから死ぬ時は、周りの人が泣いて、自分が笑っているような人生を送りなさい。」

今度の休みには、また祖母の笑顔を見に行きます。
(2003年11月)

「モネの庭」

そのことに気がついたのは、2年前の昼食時でした。

誰もいなくなったことを良いことに、レジキーだけを抜くとすぐ近くのお弁当屋さんに行き、店のおばちゃん達と話をしながら400円のビーフ弁当を買って帰ってきました。
この値段なのにそこそこボリュームがあるので、5年程前にはお気に入りだったのですが、さすがにこの頃は少し腹にもたれます。
やはり押さえた味付けの肉じゃが弁当にすれば良かったかなと後悔しながら、弁当を口元に持っていって掻き込んでいたその時です。

あれ?

なんか変です。
何かいつもと違う気がします。
うん?なんだろう?と思いながら、もう一度ご飯を掻き込みました。

確かに何かが違っている気がします。

味は、いつものちょっと辛めのタレで、できるだけご飯に絡めて・・・・味はいつもと同じだ。
肉に問題か?と箸で摘み上げて見ても、いつもの安物の肉です。
口に含んでみると、脂の多さや筋の固さが残る、ただ安いだけが取り得の末席の肉でした。
では、何が違うのだろうと思いながら、今一度弁当箱を近づけて口をあんぐりと・・・・・

あっ!
ご飯粒が見えません!

米粒一つ一つが、以前は掻き込みながら見えていたのに、今はぼんやりとしか・・・・
えっ?うそ!
もう一度箸を持って、弁当箱を持ち上げると・・・・じわりと輪郭がぼやけてきます。
弁当箱を近づけては、・・・・離し、・・・・近づけては、また離し・・・・肉の汁とご飯が絡まったお世辞にも綺麗だとは言えないぐちゃぐちゃの中身が、くっきりと見える距離と、焦がしたグラタンのように見える時があるのに気付いたのです。

こっ、これって!

ふと目を上げると、お客さんが2人、息をのんでじっとこちらを見ていました。

彼らの目に映っているのは、突然粗末な弁当箱を顔に近づけたり離したりをしながら、唸リ始めた怪しい古本屋のオヤジです。
弁当箱が近づくと、律儀に箸を突っ込みますが、口を開けるだけでご飯は流し込まず、またゆっくりと離してゆき、ある距離を境に、弁当箱を細かく前後させます。時には、弁当箱を固定して、肩は動かさずに首を前後させながら顔を出したり、引き入れたり・・・・

彼らは、見てはいけないものを見てしまったバツの悪さに、さっと目線を下げ、そそくさと出てゆきました。

私は、そんな彼らの動揺を推し量る余裕もなく、彼らの背中を呆然と見やっていました。
あんなに遠くの彼のシャツ柄はくっきりと見えるのに、目の前のご飯柄がぼんやりとしか見えないのです。

これって、老眼ですか?

昔から本は好きでしたが、目は一向に悪くならずに、ずっと両眼とも2.0でした。数年前に人間ドックに入った時、眼圧か眼底を見る検査をして、飛び上がらんばかりのフラッシュがたかれ、目の前に大きなブラックホールが見える状態になりました。まさかそんな風になるとは知らずに、目を瞬いたまま並んだ列が、視力検査になってしまい・・・
検査の間、目を凝らしても黒い穴が邪魔でよく見えず、終わってからもう一度測って下さいとお願いすると、その検査員はちらりと用紙に目を落とし、「もう、充分でしょう。」といって渡してくれた検査結果は、両眼とも1.5でした。

そんな私の目は、何の前触れもなく、突然老眼になってしまいました。


赤ちゃんは生まれてきた時、まだ焦点を調節する筋力が発達していないので、世界がぼんやりと見えているそうです。
ただ一点だけ焦点が合っているのは、おっぱいを飲んでいる時に見える母の顔だけです。
世界は、境界の無い色彩の向こうから聞こえてくる多くの慈しみの声と、自分の頬を触る優しい指先の中、ゆっくりと輪郭を結んでゆくのです。

老眼の焦点は、母の笑顔に帰っているのですね。
(2003年10月)

「リバンド王」

夏祭りのイベントで、「ラムネ一気飲み」大会があり、息子が出場して、なんと最後まで勝ち抜き優勝してしまいました。
確かに大食い、一気食いは、彼の得意分野でしたが、まさか高校生や大人に混じって優勝までしてしまうとは・・・
優勝の景品は、でっかいオレンジ色のスポーツバックでした。
私からしたら、妙に目立つ絵柄は??なのですが、彼は夏休み中も毎日クラブの練習に持っていって、大層ご満悦です。

ある日そのバックを背中に回し、玄関先で「行ってきます。」と言いながらの後ろ姿を見た時、「ああ、そうなんだ。」と胸にすとんと落ちるものありました。

彼が気に入っているのは、色や絵柄ではなくて、自らの力で勝ち取ったという「称号」なのです。
そして、私が気に入らないと感じているのは、自分の圏内から嬉々として遊離しようとしている彼の影を観ているからで、早く巣立って行けと願いながら、離れてゆく寂しさを心の奥底で感じていたからかもしれません。

この頃は、音楽や映画について自分の考えが生まれてきているようで、まともに話のやり取りができるようになってきてました。
彼なりの評価や感じる箇所があって、聞いていて気付かされることも多々あります。しかし対話していて、彼の話の中に私の影響が見えると、そこに垣間見える私自身の考えの薄っぺらと他者の考えに擦り寄っているような彼に苛立ち、そんな影響を与えてしまった反省と彼の自立の難しさに考え込んでしまいます。

思春期の難しさは、「子どもと親」両者の難しさです。

成長過程での最大の難関は、出産後1・2年の親の接し方と思春期の一時期だと思っています。
出産後の問題は、親から計られた距離と無償安堵の問題ですが、思春期は両者のそれぞれの内面処理と世界との切り結び方に関わっています。
しかもお互いの内面変容を、それぞれが可変の色眼鏡を通した中で、感情過多の瞬間判断(誤解、曲解、偶然の致命傷・・)を繰り返すという綱渡りです。
超えたい、簡単には通さない、うっとおしい、関わりたい、あんたなんか、まだまだお前は、向いて欲しい、分からない・・・

私の持っている音楽テープやCDを所構わず聞きまくり、私が観ている風変わりな映画を横に座ってしばらく眺め、書棚に並ぶ雑多な背表紙の横で漫画本を読み、政治や生活に対しての偏った講釈を私の上機嫌、不機嫌に振り回されながら聞かされ、時には塾に行きたいと言うのを強権的に止めさせられたり、不合理極まりない環境で育ってきた彼。

そんな彼は、少しずつ自分だけの「称号」を身につけ始めました。

多くの思い出が私達と共にあり、これからも新しい季節が巡ってきます。

そして今年の夏、彼の身長が私を追い越しました。
(2003年9月)

「おもちゃ箱」

気を付けていないと何やかにや用事が入り、すぐに1日が「有用」で埋まってしまいます。
いつからそんな風に時間が埋まってしまう日常になってしまったのか分かりませんが、子どもの頃や学生の時なんて、「さて、どうしようかな?」という一呼吸があったはずなんです。
ゴロゴロしていたり、所在なげに昔のマンガを読み始めたり、部屋の模様替えを思い立って大作業に没頭したり、ふらりと友人宅に足を伸ばしたりするのも、そんな「どうしようかな?」の揺らめきでした。

ここ数ヶ月、私は意識的に休日を作るように心がけています。

予定が入りそうになっても断る、家族で動くこともやめる、映画も観ないし、本も読まない、音楽は流しているけど無難なBGM、朝のメールチェックはするけどPCは閉じる、もちろんテレビなんてつけない、できれば昼寝をする、椅子から降りて畳の上を転がる、ゆっくりとコーヒーを飲む、天気が良ければ縁側で一服、呆けた様に少しだけ散歩する・・・

そんな風に過ごし始めて、ようやく「どうしようかな?」が生まれ始めました。

そう、「ようやく」なほど、渇いてしまっていたのです。

ぼんやりと「どうしようかな?」と考える時、何も思い浮かばなくてもどこか心の奥が、嬉しい気持ちに満たされてゆくのを感じます。

先日の日曜、家人はそれぞれの用事で朝早くから出払って、7時半には私一人となりました。

へへへ・・・「どうしようかな?」

そしてその日は、ふと思い立って自転車に乗ることにしました。

自転車ですよ!みなさん、この頃乗っていますか?
通勤などで駅まで乗っている人もいるかもしれませんが、私は歩いて駅に行ってますから、本当に久しぶりでした。

歩くより速く、自動車よりも断然遅く、風をまともに受けて、キコキコとペダルを漕ぎ、車の影を横目に確認して自転車を傾けて一気に道路を渡り、ふらふらと住宅街の路地に入り、公園の父子のキャッチボールを見て、前あった空き地が明るい色の家になっているのに驚き、ケーキ屋さんの甘い匂いに鼻腔を膨らませ、ぱらぱらの雨に雨宿り!

気が付いたら「海」を目指して、汗を浮かべていました。

潮の香りが漂う岸壁には、何人もの人がのんびりと釣り糸を垂らしています。
横の広場では歓声を上げて子どもたちが走り回り、日傘をさしたお母さんが笑顔でなにやら声をかけています。
海鳥が風に乗りゆっくりと旋回し、沖にはヨットが数隻水平線を横切っています。
雲の切れ目から光の線が幾筋か零れ落ち、海岸線に植えられた松の木が、枝を揺らしてキラキラと輝いています。

そう言えば高校時代も補習をサボって防波堤の上で寝ていたっけ、親と喧嘩して夜の海まで歩いたこともあったな、恋心を抱いたときは意味もなく岸壁にもたれて一人酔いしれてもいました、フェリー乗り場での沈黙に胸が痛んだこともありました、彼女と静かに波の音に耳を澄ませていた事も・・・・

素敵な時間を思い出す、素敵な時間です。
(2003年8月)

「優れものの罠」

10年前に誰が、こんな光景を想像したでしょうか?

世は、携帯メール花盛りです。
私自身は、携帯メールによる弊害や懸念は一応想定してみますが、それを禁欲する信念を持ち合わせていないので、嬉々として「ピッ、ピッ、ピッ」をしています。
仕事帰りの電車の中で、宴会の途中で、読んでいた本を中断して送られてきたメールに口元を緩めながら、この広い世界の中で「たった2人」だけという気分に支配され、真剣に小さな画面を見ながら打ち込んでいます。
不快感を顔に浮かべている隣人のことなんて、しったこっちゃありません。
まずは新しい道具と文化を受け入れ、その後に深く、深く反省しようと思います。

私にとって携帯メールで困ることは、人間の精神に及ぼす大問題よりも、具体的且つ個人的な問題なんです。

その1

他の人と同じように片手に持って親指でキーを押すと、携帯が後ろを向きはじめるのです?
文字を押すため親指を伸ばすと、指の付け根が携帯の右側面を押し、ぐっと持ち上がり向こう側に・・・・
慌てて付け根で押さえ込むと小指が上がり、今度は手前に寝返りを打つように・・・・
おっとっと、手の平の高低を微妙に調節しながらまっすぐに仰向けにさせていると、じわりと汗が浮かんできて、ますます滑りやすくなり、ひとり冷静を装いながらウナギ掴みならず携帯つかみを・・・
結局、まだ文字を打ち込まないうちから、手の中でただ携帯がクルクルとクルクルと回っているのです。

私は両手で携帯を包み込み、たまに人差し指でメールしています。

その2

例えば「たっちゃん」と打ちたい時に、困ります。
「た」は「4」のキーのところですぐ分かるのですが、「っ」は「たちつてと」の後に「っ」が出てきます。
頭の中で「たちつてと」と唱えながら、「っ」で止めようとするのですが、思わず「っ」を押してしまい「た」が表示されてしまうのです。
あっちゃ〜、と顔をゆがめて、また「た・ち・つ・て・と」と打って、「っ」で指は止まらず・・・「た」・・・「た・ち・つ・て・と」「っ」・・・「た」・・・「た・ち・つ・て・と」・・・頭の中ではただ「タ行」が何度も繰り返されてゆきます。

ようやく「っ」を表示させることが出来たら、次は「ち」を打たなければなりません。
「ち」もまたタ行ですので、今押していた「4」のキーだから・・・「た」あぁ〜〜〜!「っ」が消えた!
カッ、カーソルを横に移さなければならなかったんだ〜〜!
落胆の色を隠しきれずに、「た・ち・つ・て・と」「っ」・・・「た・ち・つ・て・と」「っ」・・・「た・ち・つ・・・・

「たっち」まで来て、ようやく半分は超しました。

ご存知の通りに「ゃ」は、「や・ゆ・よ」「ゃ・ゅ・ょ」の連続です。
「っ」と同じように指は止まらず、「や・ゆ・よ」は何度も同じ場所で表示され続けます。
それに加えて、たった3音「やゆよ」の文字が大きいのと小さいのが繰り返されて、何度も行き来しているうちに今表示されているのが大きい「や」なのか小さい「ゃ」なのか分からなくなって・・・・
ようやく止まった「ゃ」が大きいのか小さいのか自信がなくなり、震える指で押すと・・・小さい「ゅ」が・・・

いよいよ最後の難関「ん」まで来ました。
他の機種はどうか分かりませんが、私の携帯は「わをんゎ、。−・〜!?.(スペース)」の13文字の連続ですよ!
一度間違えると12回押す先に「ん」があります。
8回以上続けて押していたら、何回押したかなんて分からなくなるし、苛立ちと情けなさに惰性が加わった「ピッ、ピッ、ピッ」が、狙い通りの「ん」に止まるはずもありません。

何回押したか分からなくなった朦朧とした頭で、ず〜〜っと同じ調子の連続音を上げていると、電車の中の乗客は「こいつは、何の文字を打っているのだろう?」とチラチラとこちらを見はじめます。
不審と非難の視線を感じ、ますます焦って、両手で大事そうに抱えた携帯は、汗でヌルヌルとしてきて・・・
いよいよ奥の手です!左手に携帯を持ったまま右手人差し指で、突き刺すように・・・たった一つのキーを押し続けます。
ひたすら・・・「わ・を・ん・ゎ・、・。・ー・・・

額に汗を浮かべてようやく「たっちゃん」を打ち終わった私は、おもむろにアンテナを伸ばすと、「送信」キーを押し、ウルトラマンの返信(変身)ポーズのように高々と携帯を掲げ、「メールよ、飛んで行け!」と満足げな顔で呟くのです。

乗客が全員、その掲げられた携帯を驚きの目で見上げたのは、言うまでもありません。
(2003年7月)

「恋文」

Tさんへ

いかがお過ごしでしょうか?

世の中の言い知れぬ閉塞感は相変らずですが、季節は確実に移ろい、多くの花達が順番を待つのももどかしそうに、次から次にと命の色を輝かせています。

何かの本で読みましたが、世界の生き物のほとんどは「微生物」と「植物」らしいです。
誰に文句を言うでなく、黙々と食しては排泄し、排泄しては次世代を生み、生み落としては他生物に食されます。
天を無心に愛でながら、目に見えぬ風や波に身を委ね、他者のために空気を紡いでは、色彩をこの世にもたらしてくれます。

私は信心など持ち合わせてはいませんが、この無償な営みには心打たれる時があります。
しかしよく考えてみると、この「償い」という考え自体が存在しないのが、生物の世界なのでしょう。
誰の為とか、何のためとか、自分とか・・・・

人間って、そんな無償な存在に「無償ナ」と名付ける存在なんですね。
生物にとって、「名付けられたり」したって関係ないし、「名付け」られようが、無名だろうが彼らの営みが変わることはありません。

そんな不明に輪をかけて、何でそんな意味もない「名付け」をしてしまうんだろうって、性懲りも無く私は考えてしまうのです。
やれやれ、我がことながらやっかいな生き物です。

そんな私ですが、なんとかよろめきながらでも人並みな日常を送っています。
それでも時々は、深夜の静寂に後押しされて、虚勢を脱いだ自分の手をじっと眺めてみることもあります。
笑ってやってください。

生きてゆくことって、イメージの全体像ではなく、不合理に突き出た枝に衣服を破られ、上げきっていたはずの足がわずか数センチの敷居につまずき、無様につんのめっては、周りの嘲笑を招くようなものなのですね。
何度転んでもなかなか自分の身にならず、見えていたはずだし、分かっていたはずなのに、と首を傾げては澱りの様に溜まってゆく落胆を撫でながら、なだめ誤魔化している気もします。
だからこそ必死に全体像を広げ、その広がりが世界の縁と擦れた熱を幻想してみたり、広げる力とバランスを取る様に中心点に爪先立っては、家族を巻き込んでいるのが現実のようです。

こんな所業がいつまで続くのか、どこで箸を置いてゴチソウサマと言えるのか全く分かりませんが、とりあえず瞼の裏に映し出されている奇妙な足跡のつま先が指し示している方向に、いけるところまで行ってみたいと思っています。

いつもながら自分のことばかりですみません。
久しぶりに会っても、恥じらいが先行してただ不明瞭な笑いだけを浮かべてしまいますので、文に認めてみました。
乱文乱筆にはもう慣れていただいたとは思いますが、今回は断るのも恥ずかしいほどで・・・・お許しください。

厳しい暑さももうすぐそこです。
くれぐれもお身体ご自愛ください。
(2003年6月)

「風紋2」

なんだか直接の全面侵攻が終わった途端、一気に戦争の話題も興味も自分の中で過ぎ去ってしまった感じがします。
正直、心のどこかを奮い起こさないと戦争のことについて語る気持が固まってきません。
私の反戦・非戦の気持はどこに行ってしまったのでしょうか。

反戦という正論の側に自分を置いておれば、間違いがないという情況分析はあったでしょう。
しかし、声高く反戦を訴える意見を聞いていると、卑屈にも偽善的に聞こえて、世間一般的に言われている戦争批判よりももう少し高いところを考えているような姿勢を見せたいがために、「あえて発言しないよ。」という高等遊民的保留を気取ってもみたくなります。
「こんな戦争を仕掛けるアメリカは間違っているし、嫌いです。同時にどこかきな臭いフセインも信頼出来ないし、イラクも悪いんです。だから、今回の戦争は反対だし戦争自体絶対嫌です。」

戦争も反対したし、アメリカもイラクも否定した、問われたらそれなりの理由をあげられるから、この場所で問題ない。
安心。安心・・・・

私の心の中には、確かにこんな気分がありました。
そして気分で言えば、反戦をことさら唱えるのも嫌だし、問われない限り発言しないで達観的姿勢を飾っているのも嫌でした。
先月はそんな気持でした。今も本質的には変りません。

どちらも嫌な時どうするか?
その時は、「より格好悪いほうを取る!」というのが、私の選択でありたいと思っています。
失敗するれば、周りから笑われ、笑われたら笑って誤魔化す。
誤魔化せない時は、謝って、自分の考えを修正する努力をすれば良し。
たかが私の考えですから、命を取られる事もあるまいし、やれやれ三原は・・・で大方はすむでしょう。

今回も、自分の中の戦争が終わってしまった気分のまま、社会に歩調をあわせて過ぎ去った問題のように振舞うのも嫌だし、かと言って辟易した反戦論をしつこく訴えて正義漢ぶるのも嫌でした。

どちらも嫌な時は・・・・


先月の「風紋」に多数の意見・賛否両論を頂きまして、誠にありがとうございます。
前述した様に、ヨロヨロと発言することを選んだ私は、本当に嬉しかったです。
私個人の意見なので重複するところが多々ありますが、もう一度「反戦」「非戦」について言葉を紡いで見たいと思います。

今回の戦争や、湾岸戦争やその他各地の紛争も含めて、戦争がおこったそれぞれの理由をあげつらって論評するのは、その次元の判断だと思っています。
経済的・政治的受益、政治力学、様々な偏見、歴史的因縁、少数の人間による特権保守・・・・
それらが単独ではなく、相互に関係を持ちながら複雑に絡み合って、戦争という行為に結びついているのだと思います。
だからこの中の一面で論じても、当たっているけどそれだけじゃない、という範囲から抜け出せない気がして、むなしさを感じてしまうのです。
その領域内での自分なりの意見や批判もできますが、根本的には「それ故の」反戦論や非戦論はダメだと思っています。
その次元での反戦は、わが身に降りかかったり、切実さが増した時には、反転して好戦論になる事は歴史を省みたり、現場にいる人間達の心情を観れば自明だと思っています。

それは前回の「風紋」で書いた様に、自分と家族を守る為に反撃する心情は、ギリギりのところで否定できないのではないかという考えがあるからです。

戦争を起こす場合、様々な国益を考えて仕掛ける場合があるでしょう。
攻められる側からすれば、勝手な理由で一方的に攻められた事が理由になって反撃をします。
そうやって反撃されると、自国の理由で兵を動かし始めた国も、奪われた命や危険性を理由にさらに熾烈な殺戮を行い始めます。
現実的には、双方が双方の理由で戦争を潜在的に準備しているので(今回の米英とイラクもそうですが)、一番初めに仕掛けたほうが単純に「より悪い」とはなりません。
そうやって最終的には、自身や家族の命を守るという理由に収斂してゆき、その理由を心情的に否定出来ないので、戦争が遂行されてゆくのです。

だから根本的に戦争否定をするには、多種の理由や順番やそれぞれの非道さが「より悪い」などという理屈は、全くダメなのです。
その次元での批判は、人間が諍いをするということの否定に本質に届かないと思います。

だからと言って、傍観的に「仕方ない」し人間は戦争をする動物だなんて、うそぶく意見は嫌悪感すら覚えます。

私の今の地点で言えることは、「いい戦争」も「悪い戦争」もない、殺人する「仕方ない理由」も一切認めない、全て「否」と考えています。

この「殺人」を命だけでなく精神的なものや尊厳まで含めた広義の意味で理解すると、死刑や、個人の人権を無視した社会制度や、家族内での個人の尊厳を踏みにじっている親子関係や、いわれない差別の問題、滅私奉公的な労使関係、見えない権力でからめとる国家や共同体のあり方などの「否定」の問題でもあるのです。
これらの全否定に繋がっていない戦争反対は、本質的には全て甘いし、根本的な問題解決にはならないと考えています。

ただ、今回世界中で見られた反戦運動のうねりは、その理由の本質性を別にして時代のある一点を曲がったようにも思いました。
数千万の反戦デモが、様々な国で多様な形で行われ、デモに関わらず色々な反戦の意見が表明されました。
この潮流を考えてみると、控えめに言っても、もう第3次世界大戦は起こらない時代になったのだなということだと思います。
古い意味での帝国主義的戦争は、もう起こせない時代になったのです。
かなり強権的な体制を持った首脳陣も含めて、世界の国家はその事を知ったと思います。
別の言い方で言えば、「反戦」は「人類の意思」になったということでもあります。

もう少し先まで言うとすると、一国だけが自国の「国益」だけの理由で戦争が起こせない時代になり、今回の戦争で言ってもアメリカの侵攻は、民主主義の宣教のようにうたっていますが、根本的には「9・11」事件が国民に刻み込んだトラウマからの自衛戦争だと考えています。
今後の世界戦争は、表面的には多種の理由によって行われるでしょうが、基本的には「脅迫的な自衛」の意味での戦争だけが残るのです。
そしてそれは、何よりも厄介な理由である事は、前述している通りです。


「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いには、「私は死にたくないし、殺されたくない。から」という答えしかないと思います。
倫理や道徳や社会通念も違います。
生命体は、生きている理由など問わないで、生き続けるために生きているのが生命なのです。
だから自分の生命を維持するためには、倫理や道徳や人知を超えて、他殺をする行動を行うのです。
このことに理論、倫理で抵抗してもダメなのです。
生物はそのようなものなのですから。
「自分」は殺されたくない、それは殺される「他者」も同様です。
故に、生命体は相互に殺し、殺される事を拒否する存在なのです。

いざとなれば人を殺す私だが、だから(!)人を殺すあらゆる理由、人を否定する社会のシステムや差別も全否定するのです。

そして、そんな「自分」も「他者」も限りなく「愛しい」です。
(2003年5月)

「風紋」

他の事を書くつもりでしたが、ついに始まってしまった戦争について書き留めておきたいと思います。

個々の事象に対する意見や感想は、その都度それらの次元に即して表明するつもりですが、私の原則姿勢はいたって簡単です。
法的根拠や情況の雰囲気、積年の恨み、宗教的解釈、私怨など種々の理由があろうとも、人の命を奪ってよい正当な理由は一つもないと思います。
その行為体が、一人の人間であろうが、共同体であろうが、国家であろうが同じです。
だからどんな形であろうと、戦争は認められません。
同時にこの理念に鑑みて、テロも死刑も私は認めません。

感情的に同情したり、共感することがあっても、この原則は変りません。

よく言われるように、それならばお前は殺されようとした時に、黙って首を差し出すのか?と問われると、それは「否!」と答えるし、それこそ相手に襲い掛かってでも自分や家族の命を守ると思います。
それは矛盾ではないかと詰問されたら、確かに矛盾です。
自分達の命を守るという理由(!)で他者を殺めたのですから。

当初の動機がどうであれ、突き詰めてゆけば国家や民族、個人の自衛の心情が、最後の一線を踏み出す「最後の理由」となっています。
お互いが自衛権の錦で、戦争を行っているし、行ってきたのです。

逆に言うと、その他の全ての戦争理由は、その不当性を共同理念化することが出来ると考えます。
反戦・非戦論は、本質的にはこの自分や家族の命を守るために、切迫した情況で他者に刃を向けないでおけるか?という、最後の理由を解決しなければならないのです。

その場に臨んで、自らの命を差し出すという反戦・非戦思想は、私は信用しません。人間ができていないとか、自分の思想に信念があれば可能だなんて、うそっぱちです。
人は、追い込まれたら相手を殺してでも生き延びようとするし、それが正しいとか悪いとかでなくて、そういうもんだと思っています。
その上で、あらゆる奪命に「ノー」を提出したいと考えています。

正直、私はこの矛盾を乗り越える術を持ちません。
ただ、それでもあらゆる戦争を否定します。

最後の問いに対して、たった一つ言えるとすれば、相手が相手自身の命を守る自衛の理由を「私」の中に見ているということです。
私が襲われる理由は、相手にあるのではなくて、「私」の中の何らかのイメージを読み取っているからなのです。
私が、「相手」の中に殺意を想像すると同じように。

随分と甘い考えと言われてしまうとそれまでですが、自己から他者をイメージする方向性だけではなくて、他者から自己をイメージする逆照射の想像力を獲得する、その上で自己を見つめ、他者との往復運動に勤めるしかないように思います。
心もとない打開策でしかないことは分っていますが、その努力をしているかと問われると、まだまだ人も国家も試みる余地があるのではないかと考えています。

一年でもっとも命の輝きを増す季節になってきました。
砂漠に響き渡る泣き声の絶える事を、祈ってやみません。
(2003年4月)

「扇子(センス)と団扇(ウチワ)」

先月のビデオデッキの後日談になりますが、デッキが無くなって気付いたことがあります。

裏番組を録画して他の時間に観るということは、本来なら観れるはずも無かったものが、時を違えて観れたり、その時テレビの前で鑑賞している自分をパックにして、後日解凍して咀嚼しているようなものなんですね。
現実の2時間は、実は4時間も6時間ものの自分の可能性(!)を内包している時間になっているのです。
そうやって見回してみると、最近の便利な道具達は、日常に流れている身一つだけで体感する時間・空間を、多層化させたり省略させているものがほとんどです。

本を読んで調べたり、他者から考えを請うて初めて知る知識を、その時間をすっとばし、インターネットで瞬時に知ってしまう。
見えるはずもない遥か彼方の映像を、同時間で垣間見たりもできます。
それはテレビやパソコンの前という限定された場所で無く、トイレの中だろうが車中であろうが携帯の窓で世界に開かれているのです。
本来の不可触な時間や空間は、その絶対性を喪いつつあるのかもしれません。
時間・空間が折り畳まれ、圧縮されて幾重にも重なり合っているただ中に、私たちは身を置いているとも言えます。

しかし実際には、時間や空間密度が濃くなったとか、スピードが速くなったという事では決してありません。
現実の時間は24時間しかないし、空間も手を伸ばしたコップしか取れません。
裏時間で確保した映画も、24時間の限定時間でしか再現されないのです。
しかもその再現時間も、裏時間を含み、遊園地のミラーハウスに迷い込んで、永遠と遠ざかる自分の後頭部を覗き込みながら、眩暈に似た吐き気と闘っているようなものです。
我々は、時間や空間が均質で流れていたり広がっているという実感が成り立たず、無数にある自己像に怯え、今この瞬間にあり得る可能性をムダにしていると「無面の輩」から耳元で囁かれ続け、知らず知らずのうちに焦り、不安になっているのかもしれません。

「あれも出来るし、これも見れる、もっと愉快な事があるのに、それで良いのかい?
おっと、その前に、お前はお前なのか?
3面向こうの鏡に浮んだ、呆けた主なんじゃないのかい?」

近代技術の目指す方向の一つは、間違いなくこの時間と空間の圧縮にあります。
その圧縮で可能になった余白で別なことが出来、楽になり、違う自分に出会えることを望んだのです。
この方向は逆戻りできません。
これからも、どんどん時間と空間の圧縮が加速されて行くのです。

そしてその不安感とバランスをとるように、捻出された余白の中に「実時間と空間」を飼いならす欲求が沸いてくるような気がします。

スポーツが花ざかりになって、身体性が注目されているのは、ゆっくりと時間をかけて獲得するしかない技術や、体験に根ざした想像性に憧れている「実時間と空間」回帰なのかもしれません。
しかしまたその身体性も、テレビやパソコンで折り畳まれた時間・空間性で提出されているのです。

我々は、この倒錯した現実を生き続けるしかありません。
(2003年3月)

「粋貫き」

このメールが届く頃には、「明けましておめでとうございます。」ではちょっとずれてしまいますが、とにかく新年初の感想文です。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年の正月は、数年ぶりに親戚一同が集まった、華やかな元旦を迎えました。
それぞれの夫婦、家族には、日々の苦労とか悩みとかあるのでしょうが、重い病気や不幸に見舞われることなく顔を揃えられたことは、本当に嬉しい限りです。
何気なく実現してしまっていたり、当たり前のように「ある」ことに対して、聖人でもない限り一つ一つ取り上げて感謝の念を確認する事などないのですが、ふっとした時、その「幸福」に心身が癒される気がします。

心癒されるといえば、年末のある事件を思い浮かべました。

いよいよ年も押し迫り、普段は静まりきった店内も、外の喧騒に誘われるように子ども達や家族連れが書架の前に立ち、賑やかに言葉を交わしていたその時です。

「バフッ」

その音は、何の説明もいらない「あの音」でした。
明らかにかぐわしい匂いを伴い、音から推察するに年配の男性、右斜め2時の方向、取り立てて重篤な病を持っていない響き、テレビ鑑賞しながら顔色一つ変えずに発している日頃の生活を想像するに難くない見事な一発でした。

店内は、一瞬にして水を打ったように静まり返り、みんなの目は一点を見つめたまま全身の神経を研ぎ澄まし、背後の気配に集中しています。
こみ上げてくる笑いを必死でこらえ、誰かが何かのリアクションを起こしてくれるのを祈り、自分がその事後第一番目の人間になる事を全力で拒んでいます。
BGMが静かに流れていますが、曲が代わってビートルズの「HELP!」でも流れたら、一巻のお終りです。

少しずつ、そう本当に少しずつ、みんなの顔に漣のような表情が走り、横の連れに合図を送りたいけど目が合った瞬間、表面張力でもっている水が一気にこぼれてしまうように声を上げてしまいそうで、肩だけをわなわなと震わせていました。
それぞれが、自分の耐久力にすがりつき、手の平にはうっすらと汗を浮べ、誰か・・・頼む・・・誰か・・・
店主として、お客さんになんとか手を差し伸べなければいけない気にもなりましたが、私自身が笑いをこらえるのに必死で、天を仰いでこの窮地をじっと耐えていました。
しかし、もう限界です・・・

その極限の緊張の中、

「プワァ〜」

もはやアッパレとしか言いようがないその打開策は、岩波文庫棚前の当人でした。

店内は歓喜の笑い声に包まれ、幼き子どもは母親の袖を引っ張りながら張本人を指差し、女子高校生はあまりの可笑しさに涙を浮べ、大学生は信じられないという風に隣の連れの肩を叩いています。
様々な笑い声が重なり合い、一種美しい調をかもし出し、見事に溶け合ってゆきました。
本人も顔を真っ赤にして笑い、薄くなった頭を掻きながら、みんなの祝福を全身に受け止めています。

まさに総立ちのスタンディング・オベーションです。
拍手こそありませんが、気持がこもった笑い声がしばらく鳴り止みませんでした。ありがとう!ありがとう!
そこに居合わせた全員は、何が「ありがとう」かよく分からないままに、とにかく天上からの「笑い」を享受していたのです。

今思い出しても心洗われる素敵なひと時で、幸せを噛みしめた瞬間でした。

昨今、癒しがブームのように言われています。
でも癒しにも色々あって、自分が自分を愛撫する癒しもあるし、日々の生活からの「息抜き」もあります。
それらも大事だったりしますが、「バフッ」の「生き抜き」の力も、私は大好きです。

皆様におきましても、幸多い年であることを祈念しています。
(2003年2月)

「大丈夫!だいじょうぶ!」

今年一年、お付き合いありがとうございした。
どうかこれに懲りずに、来年もよろしくお願いいたします。

感想文を送り続けて、ある読者から「どうして徳さんの紹介する本は、マイナーで暗くなりそうな本が多いのですか?」というメールが届いた事があります。
私が眺めてみても、今年は特にその傾向が強かったように思います。
実はこれには、2つの理由があるのです。

一つは、年々とんでもなく「辛い時代」になってきたという認識があるのです。
辛くなってきた理由は、自己アイデンティティーの困難さや技術発展に伴った生存ストレスの軽微、世界流通を踏まえた経済的なことなど様々な見方があると思いますが、どれもが個別に顕在化してくると同時に相互に絡まりあって複雑でかつ強固広大に表層化したことにあるように思います。
社会として表面化してきたということは、個々の人間には垂鉛のように内部に深く重たい「不快」の塊が潜行し、荒野の領域を広げたように思うのです。
その荒野は、個人の問題や家族という限定された領域で考える位相を突き抜けて、同時代の共通する無意識層や生物の初源の夢に抵触し始めているのです。
独断ではありますが、私は今の「辛い時代」をそう認識しています。

そんな時代の辛さは、経済がどうとか人の情がどうとかのレベルではどうにもならないと思っています。
残念ながらしばらくは、この「辛い時代」は続くでしょう。
その中で、人類が新たな「哲学(言葉)」を見つけ、個々の「幸福論」を生きる事が出来るかどうかが試されているように思います。

私は楽観主義者ですので、希望は捨てていません。
実際に小さくはあっても「幸福」を求め、挫折を繰り返しながらでも「生きる」喜びを実践している例が増えているように思います。
しかしこの試みは、強力な経済力学の中や現実の壁の前ではあまりにも儚げで、ともすれば求心力にすがり閉鎖的な関係性の中で生き残りを求めてしまう危険性もあります。
超個人主義に陥らない「幸福論」が、個々の差異を認めた上で成り立つ事を、夢想家と蔑視されながらでも信じているのです。

もう一つの理由は、傲慢な考えかも知れませんが、今現在孤独な立場に追いやられ、悲しい心を抱いて震えている人が、同じような問題に向き合っている人が「いる」事を知って欲しいのです。

あなたはひとりではありません。
きっとあなたの痛みを分かってくれる人がいます。

ベストセラーでもなく、新刊屋さんでも古本屋でもなかなかお目にかかれない本もあるかも知れません。
でも、この本が存在するということは、あなたの悲しみに耳を澄ませてくれる人がいることです。

あなたはひとりではありません。

たった一人でも、「ひとり」でないことをこの感想文での本の紹介で知ってくれる事が、私の「願い」なのです。
(2003年1月)

「れ・みぜらぶる」

先日、夜遅くまで一人で映画を観ていて、一杯酒をあおった後にビデオテープを取り出そうとすると、出てきません。
あれっ、と思いながら電源を入れたり切ったり、取り出しボタンを押したり撫ぜたりしてみましたが、どうしても出てきません。

仕方が無いので、上から取り出そうと上蓋を開け、テープのところのネジを外し、邪魔な配線を慎重に引き抜いて・・・するともう一箇所ネジで外すところが出てきて・・・シートが邪魔になり・・・・だいぶ見えてきたけど表パネルから行った方が良く見えるのでパネルを外し・・・・はめ込まれた外枠を取って・・・・カムを引き上げて・・・・
テープを取り出しました。

ほっと一息ついて足元を見ると、周りには色とりどりのネジと大小さまざまなシートと、裸になったヘッドが転がり、どこがどう繋がっていたのか見当もつかない配線とパネル、集めると本当に四角になるのか怪しいビデオデッキの残骸です。

オ〜、マイ、ガッ!

翌朝、家族から散々ののしられ、
「そがん、大騒ぎせんちゃ。直せばいいんだろ。今までも、おもちゃを直したことがあるだろ。あれと同じさ。」
「前のビデオカメラも分解して、直らんやったし、直ったおもちゃより、バラバラになったおもちゃの方が多い。」
「だっ、大丈夫って・・・・」

その晩に子ども達と一緒に復旧作業をしました。なんとか配線はうまくいって電源は入るようになりましたが、ゴムのベルトと金属の部品とネジが2本ほど余り、結局、テープが入らない(!)ビデオデッキが出来上がりました。

皆さんも、お気を付けください。
(2003年1月)

「落葉の時間」

私がはじめて海外旅行に行ったのが、中国でした。

国交回復して間もない頃で、国内でもぼちぼちと中国旅行の企画が出始めていました。
ほとんどの人がくすんだ汚れの人民服を身にまとい、私が通りを歩くと振り返っては、奇異な目を向けてきたものです。
朝もやの中から沸き出てくるような自転車と人の群れにドキモを抜かれ、私はただその尺度の大きさにぼんやりと佇んでいると、パーン、パーンとすぐ後で小型のバスに苛立つように警笛を鳴らされ、転がるように脇に退けていました。
地下鉄の各駅は、違う色の大理石で装飾されていて、太い柱の周りには龍の口を開いたタン壺が置いてあり、カッという単音を残して行き交う人がその中に上手に吐き出しています。
あの世界都市の北京は、通りから一歩入ると映画で見るようなレンガ造りの粗末な家が軒を並べ、塀から覗き込むとカーテンも無い窓の向こうに裸電球が寒そうに揺れていました。
万里の長城では、路肩に座り込んでいた若者が寄ってきて、「これは明時代の珍しい古銭で、かなりの値打ちものだけど、安くしておくから買わないか?」(多分そんな意味)と周りを気にしながら潜み声で売りつけに来ます。

そんなある日、こっそりとホテルから抜け出して夜の北京見物に出かけたのです。
表通りを避け、いたるところに扉のない公衆トイレがある裏の砂利道を歩いてゆくと、突然真っ暗な空間が広がりました。そこは、対面が闇に沈んでしまう天安門広場でした。

磨きこまれたようなレンガ面をふらふらと歩いてゆくと、天安門事件で有名になったあの像に出くわしたのです。
空気自体が重たく凍り、音はその空気に乱反射して、遠くの音なのか近くの音なのかも不明に地を這っています。
その像が何を意味して、なぜこんなところに建っているのか知る由もなく、その像は恐ろしく広い空間に一人佇んでいました。

唐突に、昔読んだワイルドの「幸福な王子」を思い出し、サファイアの目も無くルビーの無くなった刀の柄もない金箔の剥がれた惨めな姿をさらした銅像は、このような孤独を味わったのだろうかと、いるはずも無い足元のツバメを探していると、どこからともなく一人の兵士がなにやら叫びながら走り寄ってきたのです。
両手で銃を構え、顎に紐をかけて深くかぶった帽子の奥には、ただ鋭い眼が飢えた様に光っていました。
私はいささか驚きながらも、気軽に手を違う違うと言う様にひらひらと振りながら、その兵士に一歩近寄ったのです。
すると、その兵士はさっと銃口を上げ私の胸元に狙いを定めたまま後ろに下がり、震えるような大声でまたなにやら叫びました。

愚かにも私は、その時初めて気が付いたのです。
「彼は本気だ。撃たれるかもしれない。」と・・・・

以前、祖父から満州事変の話を聞いた事がありました。
夜警の時に人に遭ったら、「お前は誰だ?」「お前は誰だ?」「お前は誰だ?」と三回訊いて、それに応えなければ撃っても構わないのが世界の常識であり、たとえ味方であってもそれは不問になると言うのです。
まさに今、私はその「三誰何」の真っ只中にいるのでした。

私は、ただ怯えながら両手を挙げ「我(ワオ)是(シー)日本人(リーベンレン)」「日本人!」と必死に訴えていました。
それしか(!)自分の命を守る術が無かったのです。

日頃は、自分の命が失われる危機感など全くありません。
病気や事故は、確かにその可能性はありますが、自分の一瞬の身の振り方によって「命」が奪われるかもしれないなどという情況は、皆無といってよいでしょう。
そんな日本は、その意味では確かに恵まれていると思います。
平和であるとも言えるでしょう。

世界は今この瞬間も、自分の責任で命のやり取りをしているのです。
その世界の現実と日本の現実とのギャップ、日常取り巻く現実と自分が思っている現実とのギャップ、この間に横たわる溝は想像以上に大きいものです。
確かにこの溝を真摯な想像力で飛び越え、融合の努力も大切なのかも知れません。そんな欲求に駆られることも確かです。
しかし・・・・

みんな形無き不安に囚われ、社会には不信感が満ち、誰彼となく口に出すのは不満ばかりの時代は、とかく「答え」を急ぎがちになってしまいます。

「すみません。ちょっと答えを待ってください。」

今でも時々あの焼け付くような焦燥感を思い出しては、身震いしています。
(2002年12月)

「月夜の好きよ」

先月の下着を覚えられないという話に、「私もそうです!」という励まし(?)のメールを多数頂き、調子に乗って今回も日頃口には出せない理解に苦しむ話を・・・・

近くにも大きな100円ショップがあるのですが、どうしてあれらが100円という価格で成り立つのでしょうか?
モノが出来るには、材料費もいるでしょうし、加工したり型取りする人達の労賃もいるでしょう、それを運搬する交通費もかかると思います。
機械を動かしたりするには電気代もかかるでしょうし、もちろん販売店の家賃も人件費もかかると思います。
薄利多売で多量に造ったり、人件費の安い中国で生産したとしても、それに伴う材料代とか船賃とかがかかるでしょうし、想像を絶する低賃金で働いているのではないかと思ってしまうのです。
昔は安いものはそれだけ物が悪いように思っていましたが、棚に並ぶものは高級品ではないかも知れませんが、十分に日常の使用に耐える品質を保っています。
それだけのものが、なんもかんも100円です。
この頃は50円ショップ(!)まで出来ているみたいだし、100円を切る靴屋さんもあるようです。

お店に行っては、こんな物もあんな物もと驚きながら手にとり、カナヅチをむやみに振り回してみたり、だるま落としをしてみたりして、なんとか自分なりに納得できる落とし所を探ってみたりするのですが、みんな我が家のほこりをかぶったものより随分と綺麗で、なお且つ立派です。
結局、店の人に胡散臭そうに見られ、コソコソとCD一枚をレジに持って行くはめとなります。
(案の定CDのセロニアス・モンクのピアノは、100円分の演奏ではなく、心に染みるジャズを奏でてくれるのです。)

いまだに、よく分かりません。

ネットの接続料金が、使ったり使わなかったりするよりも、繋ぎっぱなしの方がなぜ安いのでしょう?
貧乏性の私は、電話をかけていても頭のどこかで「3分10円、3分10円・・・」と鳴り響いていて(すでに3分10円ではありませんが、いまだにこのフレーズしか思い浮かびません。)用件が終わると、早く切ろうと気が急いてしまうのです。
それでも!この「電話を使って話をするには、3分10円のコストがかかるのですよ。」という説明は分かります。

回線を接続する交換台には、おねえさんがヘッドホンとマイクをつけて、ジャックを右から左の穴に繋いだり、鉄塔の上に登って汗を流している日焼けしたおじさんさんが思い浮かびますし、大型の機械がうなりを上げて稼動している光景も想像できます。
もちろん今は交換士のおねえさんもいないでしょうし、機械もコンパクトになっているのかも知れませんが、いずれにしても電気代やその事業に関わる人達がいるだろうと思うのです。
電話をかけるという現実への対価が、「3分10円」だというのなら、そうなのだなと納得します。
しかし、切っては繋ぎ、繋いでは節約に焦る家庭よりも、24時間繋ぎっぱなしで回線を使用している家庭の方が、断然安いのは何故なんでしょうか?

どこかの誰かが、その不足分を繋ぎっぱなしの人に代って、払ってくれているのでしょうか?
私はひょっとしたらそうではないかと思い、その人に申し訳なくて、いまだに繋ぎっぱなしに出来ないのです。

えっ、まさか!手の平に汗を浮かべて長電話にドキドキしている私が、払っているのですか?

先日ラジオで聞いた投書です。

「お昼にあるワイドショーで、モザイクがかかって顔を出さない相談者がいますよね。私は彼女らに猛烈に腹が立ちます。
何で自分の悩み事とか、相談事に正々堂々と顔を見せないのでしょう。なんか卑怯じゃありませんか。そんな人を、私は信用できません!」
(匿名希望)

世の中、分からない事だらけです。
(2002年11月)

「手かざし」

年々、身の回りの事に興味が無くなってゆきます。

これが年を経た知恵によって、達観の域を目ざしてまい進しているというなら、問題はないのでしょうが、どうもそれとは様相が違うようです。
そう。その様相が「どうでもよく」感じているのです。
はっきり言いますと、ほっておくとどんどん身なりがだらしなくなる中年おやじになっているのです。

もともとファッションとか、センスとかいうものを司る神経細胞が消滅していて、とりあえず暑さ寒さがしのげて、奇異でなければいいのではないかとぐらいにしか感じていませんでした。
(ここに「奇異でない」という私の主観が入っているので、他者からは十分奇異だという意見が出てくるかも知れませんが・・・・学生時代のドテラに下駄履きや破れ果てたジーンズとか・・・)
ファッションセンスが無い人間が、他人の目線を気にしなくなれば、その行く末を想像するに難くありません。

結婚してからは、もっぱら家内が季節の変わり目に「もうそろそろ、半袖でもいいんじゃないの?ここに出してあるから。」とか「寒かったらジャンバーを着て行って。」と言われ、洋服ダンスにつるされたシャツやセーターをただ漫然と着ているだけでした。

本来は自分で判断しなければならないことを他人に預けるツケが、こんなにも大きいとは・・・・

実は、今回このように身なりの話をし始めたのは他でもありません。
自分の身につけるものに無頓着になってゆく果てが、自分の下着までも覚えられないという恐るべき事象に突き当たってしまったのです。

多分、まだボケてはいないと思います。
・・・そう思いたいです。

しかし、風呂に入る前にきちんと畳んだ洗濯物の中から自分のトランクスを選ぶ時、いつも一瞬息子のトランクスか自分のかを迷ってしまうのです。

・・・・あっちのような気がするけれど、こっちの図柄に見覚えがある!・・・・
「お父さん。それ違うよ!」
「あっ、そうか?へへへ・・」
・・・・ちくしょう、間違えた。これは違うのだな。あっちの方だったのか。・・・
「お・と・う・さ・ん、それも違うよ。」
「えっ?・・・」
・・・・あれ?俺のパンツはどこにあるんだ?あれでも無くて、これでも無い、ひょっとしたら、このちょっと布地が薄くなった・・・
「もう。いい加減覚えてよね。自分の下着ぐらい!」

照れ隠しで顔は笑っていますが、内心は複雑な気分です。
せいぜい5枚ぐらいしかない自分の下着の図柄が完全に脳裏から消えており、一番みすぼらしいその布切れが、我が物だったとは・・・
何日も何日も大事な下半身を文句も言わず包んでくれていたというのに・・・私はとんでもない不義理な輩です。
すまん!許してくれ。・・・・お前のゴムの伸び加減は、けっこうイケルぞ!

それなのに、翌日には洗濯物の山の前で、手を浮かせたまま振り子のように右、左、右・・・・

幸いな事に、まだ家内の下着と間違った事はありません。
(2002年10月)

つぶやいています


「umi」

20年程前、沖縄を放浪していたことがあります。
旅立ってから約一年ほどの旅でしたが、私にとっては大きな転機になった貴重な体験でした。
故あって先日、その時書き連ねていた日記を読みなおしたのですが、正直言ってショックを受けてしまいました。

もちろん後年このような形で他者の目に触れる事など微塵も想像していないし、複雑な感動や不安を説明する必要も無いその時点での文章は、単純な言葉に収まるはずもなくそのまま溢れ落ちる感情の泡を心ゆくまで楽しんでいて稚拙そのものですが、少なくともそのときの私は、天地の間に両手を広げ、白いノートにシミのように増え続けてゆく言葉を慈しみ、信頼していたのです。

少し妬けました。

某月某日

夕方頃から海の色が変わってきた。
紺碧とは、このような色であろうと真剣に納得す。
海原である。全くの海原である。
しけて船は大きく傾くが、デッキに出て風にあたる。
船の先端で海を臨み、一人笑ってみる。
風は立ち、波は大きく砕け、うねりは生命を持ったように蠢動している。
濃紺な海に、あまりにも鮮やかすぎる白が飛んでは弾け、海面を必死に広がろうとし
ては綿雲の様に淡い線だけを残し海間に消えてゆく。
白き波は、多く集まり薄い水色になって一瞬だけキラリと光っては、何も存在しな
かったように消えてゆく。

これを書きながら、周りは真っ黒い闇に包まれてしまった。
水平線は、丸いのですね。


某月某日

意思もなき石の重さはまた軽く
重き石の転がりもせず

風吹かれ転がる石の軽きかな
止まりし石もまた悲しい

繋がれし水牛の目に涙見ゆ
我が心我のみ知ると


某月某日中城城跡にて

山肌に築いた石壁、蔦が這い、人跡が絶えた中、かたくなに沈黙を守る。
敗者の運命が、沈黙する事によって唯一の主張を繰り返している。
昨日は海の声を聴き、今日は山の沈黙に想いする。
限りがあるのだろうか?限りなき無限世界が嬉しい。
足は、豆の痛みだけを残して動こうとしない。
肩は、リュックの重みに大きく腫れ上がる。
出来るならこのまま浮者となって、浮者として消え去りたい。

明日は沖縄本島を去る。
お金が底をつく。


某月某日

無形の風が吹いています
いつ果てるとも知らずにただ単に
でも確かに私一人を残して行ってしまったのです

透明な海が広がります
太古という今を乗せてひたひたと
でも確かに私を探すのは難しいのです

逝ってしまった空が、覗いています
空想の重みを支えるように
でも確かに私の心を悲しくさせているのです


某月某日

君の報を聞きし登る高台の
酒の杯は増しつ白砂

ありし日の焼酎飲みし君の顔
今日の酒は苦く感じつ

南海の海に沈みつ陽の輝り
君に見せたし砂を握りつ

夢を見し果せず逝く君の内
想に焼ける我の内はと

陽は翳り木々の梢の騒ぐ時
君の近づく想いにとらわる

石垣に咲く花色の鮮やかし
間を行く牛にムチの打たれる
(2002年9月)

梢の君

会話している人の鼻から覗く、小さな鼻くそが気になります。

気がついたその瞬間から、私はそのモノから一時も目を離せなくなり、話している内容もほとんど頭に入らなくなってしまうのです。頭の中では、そのことを相手に告げたほうがいいのか、告げるとしたらどんな言葉で教えてあげたらいいのかを必死で考え始めます。

「君の鼻に「身体防御機構の正当なる証」が付いているよ。いや「密林の王」が・・・分かりやすく言うと「香りの結晶」が・・・・」問題は、間違いなく泥沼化することでしょう。

それに加えて、今流れている全然関係ない会話の中で、どのようなタイミングで切り出したらいいのかも重要な問題で、そのことに脳神経を総動員していると、私が返事も返さず真剣に聞いてくれていると判断したのか、彼女はますますテンションを上げてゆきます。
口を開けて笑う彼女の鼻には、小刻みに揺れる・・・・

なんとか知性ある大人としてこの場を切り抜けようと呼吸を整え、以前同じ情況で自分がどのような対処をしたのか、はたまたどのように失敗したのかを思い出そうと、記憶の引き出しを開け閉めして努力もしてみます。
そうやって手の平に汗が滲み出すほど考えた末に思い出したのは・・・・・違う彼女の、違う鼻くそだけでした。

本来なら恥ずかしいのは相手の方なのでしょうが、私の方が居たたまれなくなって、なんとしてでもこの場を逃れたい気持ちになってしまいます。
しかしこのままでは、彼女はあの淡く光っているものを幾人もの人達に晒すことになるでしょうし、今私が狼狽している同じ情況を他人に預ける事にもなります。
なぜ私の前に気付いた人が、彼女に教えてあげてなかったのかと、顔も浮ばない前任者を恨んだりもします。
いや、そうではなくてこの無垢なるものは、今まさに初めて外気に触れるところまで生れ落ちてきた新鮮、いや新生なるもので、その出会いの栄を私が与えられたのかも知れません。・・・・・でもこの栄誉は、私にとって何の慰めにもならないのも事実です。

混乱した頭のまま、とりとめもない考えがぐるぐると頭の中を駆け巡り・・・
そして目の前には、なにも気付かず偉大なる存在を付き従えた上機嫌な彼女が・・・

切り出す前には、まだまだ乗り越えなければならない問題があります。
教えてあげた瞬間、慌てる相手の何処に目を留めていたらいいのでしょうか?
視線を下ろして、彼女の可愛いサンダルをじっと見つめていた方がいいのですか、突然珍しい広告を見つけたかのように背景の看板を読むふりした方がいいのでしょうか、それとも彼女の撤去作業を冷静に観察した方が・・・

最大の問題は、その後どんな会話を繋げたらいいのかということです。皆目、見当もつきません。
頃合いを見計らい、目を上げ「そのサンダル似合っているね!」と笑顔を投げかけても、その時彼女の撤去作業が不完全で、まだ片鱗が揺れていたら・・・・はっきり言って、地獄です。

時間が経つにつれて、情況は悪くなる一方です。
これほど時間が経過した今となっては、たとえ彼女に教えてあげたとしても、それを知っていながら長い時間放置していたと、私を恨むことは間違いありません。
しかし、もう一時の猶予も、私の精神的葛藤も限界です。

ここは、勇気を振り絞って

「あの〜、ちょっと・・・付いています。その〜・・・ここに。・・・・いや、そっちではなくて反対側。・・・もうちょっと右・・・・いや・・・まだ取れてません。・・・・もう少しで・・・・あっ、・・・・奥に入ってしまいました。・・・・でも、まだ見えてます。」

助けてくれ〜!
(2002年8月)

「耳にタコ、目にはイエローカード」

今月は右を見ても左を見てもW杯一色で、私も例に漏れずに2・3年分のサッカーの試合を1ヶ月でまとめて見てしまった様な感じです。
脳の対応力の衰えた私などは、頭の中は繰り広げられる鋭いシーンと驚嘆の声を上げるアナウンサーの声と、もっともそうな解説用語が渦巻いて・・・・仕事をしていても、1次予選に劣らぬ混乱の日々が続いていました。

店ではサービスカードを発行しているのですが、つい「300円で1ポイントの勝ち点が3ついて、引き分けだと1点、負けだと0点です。」とか、途中からわけ分からないことを言い始めたり、

メールで送料の説明をしながら「郵便の冊子小包では310円で、宅配便だと500円になりますので、その得失点差を考えると1点でも多く入れておくと有利です。」

お客さんに本の場所を訊かれると、
「その右の棚の中盤にあるので、落ち着いて見渡して下さい。もし分からなければ、2・4・4システムになってますので前線からプレスをかけながら・・・」

バイトさんには、
「午前中はお客さんが少ないから、きっちりと前半を守って後半相手が仕掛けてくるところを逃さず、こちらのリズムで攻めてゆきたいですね。」

万引き対策にはもちろん、
「なんと言っても、オフサイドトラップの上げ下げを慎重にしながら、マークはきっちりとして、臨機応変に対応して下さい。」

レジの対応には
「矢継ぎ早にレジを打つことは無いけれど、もし重なったらサイドからの攻撃に気を付けて、落ち着いて処理してください。高さでは負けているので、センタリングには特に気をつけるように。」

修整が効かない初出場チームのように、分かっているのに歯車がかみ合わずに連続でオウンゴールを入れしまい、頭を抱えている選手の気分です。

皆さんのワールドカップは?
(2002年7月)

「マリモの昼寝」

「神は細部に宿る」と言いますが、日々生活している全てが細部の集合体でありまして、細部に宿ってもらわないとそれこそ救われませんよね。

その細部達ですが、やらなくてはいけないと思っていたり、やらないよりはやったほうが良いだろうと考えていたり、なんとか懸案の一区切りだから少しだけ羽を伸ばしてみようとしてみたり、まあ常識的な判断だからとりあえずやっておくかとか、なんとなく今これにハマッテいるから楽しいんだよとか・・・・・仕事も、家事も、育児も、勉強も、遊びも、趣味も、恋愛も、人間関係も、様々な活動も・・・・

皆、細部と言えば細部です。

べつに厭世観に囚われているわけでも、ニヒリズムに陥っているわけでもないのですが、どこか私の中ではずっとこの考えがあるように思います。細部だから、ダメならダメでもどこか他で帳尻を合わせられそうだし、細部だからできる所は真面目にやっておきたいし、それでもやっぱりたかが細部だとも思っていて、だから大事な気もします。

わが人生はお金には縁が無く、無い状態にも慣れてしまっているけれど、月末にはいつも頭を痛めています。

どんなに遅くまで起きていても、できるだけ朝食を子ども達と食べるようにと思っていますが、月に2・3日は寝坊してしまいます。晩御飯も同様に一緒にと思いますが、それぞれの活動が少しずつずれてきて、1週間のうち5日ほどしか実現できません。お風呂は、さらに様々な条件が重なって(浴室の大きさ・見たいテレビの合間・宿題の進行状況・・・)子どもと一緒は、週に3日あるか無いかです。
もっとも、そんな時は私が嬉しくなって、つい長風呂になってしまいますが・・・

先月からケーブルテレビでやっていた「刑事マルティン・ベック」が非常に気に入って、その原作を全10巻のうち6冊ほどネットで仕入れて、3冊読み終えました。60年代のストックホルムが舞台で、当時の市街地図を見ながら、ゆっくりとその時代を登場人物たちと過ごしています。

今月も20本以上映画を録画しましたが、10本ぐらいしか観れませんでした。
99年ベルギー=仏映画の「ロゼッタ」がとても良かったです。
今月の音楽で言えば、子どもが買ってきたモンゴル800の「MESSAGE」が、我が家でしばらく鳴り響いていました。
さすがにこのビートを長く聴くには辛いものの、ブルーハーツを思い出しながら、この唄に反応する残り火がまだ自分の中にあるのに驚きました。

コミックの「スラム・ダンク」全31巻を再読して、クスクスと笑ったりウルウルとしたり・・・
集め出したコミックの種類も増えて、部屋のあちこちに山積みとなってきています。
文字だけの読み物では10分も長続きしないのに、コミックでは数時間も持続できる集中力・・・その差は開く一方です。

大病もせず調子の良し悪しはあるものの、なんとか日々を送っていて、そうなると脳裏から消え去る休肝日。
タバコの量は増えも減りもしないけど、食後の一服もそんなに美味しいとは感じなくなってきました。
知らず知らずのうちに肉食や揚げ物よりも、煮物や漬物に箸を伸ばし、いよいよトシだねと冷やかされもします。
他人と外で飲む機会はめっきりと減って、出たいとも思わず、高校時代の友人家族との歓談がその月唯一の外飲なんて事も増えました。

皆、細部と言えば細部です。
だから皆、いとおしい。
(2002年6月)

「悩める人」

私自身はばたばたと仕事して、気ぜわしく日々を送っているように思っているのですが、周りから見ると、誰もいない店でぼんやりと時間を食んでいるように見えるのか、老いも若きも男女問わず、様々な相談をもちかけてきます。

「実は好きな女の子がいて、どう接したら良いか分からないのです。徳さんはどう思いますか?」

目の前にいるお世辞にももてる部類の人間でない彼、しかも見たこともない彼女へのアプローチ、占い師ならいざ知らず、真面目に考えてどうな答えがあると言うのでしょう。

「その彼女、かわいいと?」
「ええ、結構人気があるようです。」
「・・・・そう。恋愛の戦略は、古来から1つしかないよ。攻めて、攻めて、攻めて、当たって砕けろだな。」
「そうなんですか。そうか・・・・頑張ります!」

その後、彼からの報告は無い。

「うちのじいさんは、若い時からばってん、ギャンブル好きで困るとよ。どがんかならんかね〜」
「ギャンブルって、なんばすっと?」
「なんでんかんでん。ボートから競馬から花札や賭け麻雀まで、ありとあらゆるものに手ば出すとよ。」
「そいで勝つとね?」
「そうやね〜。勝ったり負けたりだけど、差し引きしたらちょっと勝ってるとじゃなかかね〜。」
「そんなら良かたい。ところでおばあちゃんは、今日は勝ったと?」
「あそこのパチンコ屋はダメばい。私は負けてばっかりよ。」
「そんなら、じいちゃんに頑張ってもらわんばな〜」

いくつになっても、夫婦は差し引き0なのかも知れません。

「おじちゃん。何していると?」
「パソコンでお仕事しているとよ。」
「パソコンで何のお仕事していると?」
「いろいろな相談を受けた話を書いているとよ。」
「ふ〜ん。それがおじちゃんの仕事なの?」
「・・・・・・・」

私は、ばたばたと仕事しているつもりなのですが、周りはそう見てくれません。
(2002年5月)

「桜のチカラ」

店から歩いて30秒足らずのところに小さな公園があって、そこには数本の桜が植えられています。
淡い色が一面に広がる公園では、小さな子どもがヨチヨチと鳩を追い、お母さんがそのうしろを目を細めて追いかけていたり、サラリーマン風の男の人がベンチに座り美味しそうにタバコをふかせ、花を眺めていたりします。

私は、こんな午後のひと時が好きで、柔らかな日差しの中でぼんやりとこの光景を見ながら、毎年同じことを考えるのです。
桜って凄いな〜って・・・

なんじゃい。と笑わないで下さい。
本心からそう思ってしまうのですから。

日頃は家族や自分のこと、仕事や周りに起こっていることや取るに足らないことを考えたり感じたりしていますが、その時には、そんなことはもうどうでも良くなってしまっているのです。

今日ハ、ヨカ天気バイ。
桜モ、気持チガヨカゴタル。
ソイバッテン、ホントウニキレイカナ〜
薄ピンクノ花ビラガ、モッタイナカグライ風ト戯レテ・・・
ヨカナ〜
桜ッテ、スゴカバイ!


前日までの愚図ついた天気がうそのように晴れ渡ったある日、K君は久しぶりにお父さんとお母さんと花見に来ていました。
その丘の上の公園には1本の桜の老木があって、近所の人たちの憩いの場所でした。
ここ数年は、その木がだいぶ元気が無くなってきていて周りの人々を心配させていたのですが、今年はどういう訳か見たこともないような満開の花を咲かせていたのです。

3人は時間をかけて丘を登って来ると、包み込む様に広がった見事な枝の下に足をとめ、花弁が嬉しそうに揺れているのを静かに見つめていました。
K君は、春の陽光を受け輝いているかのように見える樹をじっと見上げ、お父さんとお母さんは、そんな真剣そうなK君の顔を見つめながら微笑み合っていました。

するとK君が、桜の花びらを掴もうとするかのように両手を上にあげ、うれしそうに笑顔を見せたかと思うと、引き上げられるようにゆっくりと座っていた車椅子から立ち上がったのです。
まるで、生きていることへの万歳をしているかのように、初めて自分の足で・・・

桃色の花びら達が、彼の周りを歌いながら幾重にも舞っていたのは言うまでもありません。

三原拝
(2002年4月)

「猫のあくび」

2月の連休を利用して、長崎の大島、蛎ノ浦(かきのうら)島という処に泊りがけ
で行ってきました。

私は、行く前までは久々の家族旅行ぐらいの気持ちでしたが、現地に着くなりむくむと自分の興味が頭をもたげ始め、2日間ただひたすら炭住跡の廃屋や病院跡などを写真に撮りまくっていました。

炭住とは、炭鉱に従事していた人たちの住居ですが、団地形式のものから木造の平屋形式のものまでが、道から外れた草山の中に静かに佇んでいるのです。
その近くを探索すると、かつての映写室が2つの窓枠だけを残して建っていて、今は無きスクリーンと、そこで疲れを癒していた人々を懐かしむかのように、夕日を浴びていました。
全身を蔦で覆われた独身寮跡には、坑道から上がってきた若者達がすぐに飛び込めるように1階の真ん中に大浴場が設えてあり、横の大部屋はどうも食堂だったようです。
もちろんそれらの空間は、数十年前に突然その一切の機能を失って、到る所のタイルは剥がれ落ちたまま、錆びた蛇口と半壊した食器棚が冬の風に晒されていました。
降り積もった塵で白く清潔にさえ見える階段には、誰が忘れていったのか片方だけの紐を無くした靴が、主人の帰りを待っています。
野犬か人のものかの区別もつかなくなった糞が、のびのびと廊下の真ん中で寝そべって、主体からの離脱を成し遂げた開放感に浸ってもいました。
多くの苦痛と悲しみが染みこんだシーツは剥ぎ取られ、さばさばとした藁がむき出しになった病院のベット達。
時間の流れを拒否するかのように冷たく光っている薬ビンには、乾燥して裂け目だらけになったゴムのチューブがぶら下がっています。
誰が何を思って座っていたのか、重々しい文様が彫り込まれた優雅な椅子は、座部のスプリングを恥ずかしそうにさらしたまま傾いでいます。
曲がりくねった急な斜面に張り付くように連なる商店街は、8割がたはシャッターが下りていて、薄暗い店の奥では老婆が、鳴ってもいない風鈴に耳を澄ませるように、虚ろな目で一点を見つめています。

どこか遠くで、鳥の鋭い鳴き声が聞こえました。

そういえば、昔はこんな廃屋が町の中に点在していて、よく潜り込んで遊んでいたことを覚えています。
離散した農家の納屋や、かつては大きな屋敷があったであろう立派な庭も、いつも私たちの遊び場でした。
こっそりと秘密の基地を作ってそこで右目が傷ついた子猫を飼い、給食のパンを残して持ってきたり、文具を買うといって親から貰ったお金で牛乳やハムを与えてもいました。
夏休みには、それぞれの家からゴザとマンガ本を持ち寄り、転がって読んでいるうちにみんな寝入ってしまったり、町内の空き瓶を探し集めて、たった1本のアイスクリームをみんなで食べたこともありました。
子どもの時間はいつも、こんな塵が静かに積もったひんやりとした空間と、古き物達の眼差しの中で流れていたのです。
新しい命もモノも、常に古く朽ちてゆく中で生まれ、そのもの自体が本来持っている時間の推移を堪能するのが、自然であったように思います。

死んで、朽ちて、腐れて、分解されて、チリとなって、無に帰ります。
その道のりには、様々な生や死の時間が蓄積され、多くの他物の視線に支えられているのです。

しかし今の時代は、このようにモノが朽ちてゆく時間さえも残っておらず、常に新しい顔をしたモノばかりが並んでいます。
そんな中だと、モノに朽ちてゆくサダメを見ることも、生きているものに死していく必然とその過程があることも、感じることが出来ない気がします。

夜のしじまに犬の遠吠えが木霊したのは、いつ頃だったでしょう?

三原拝
(2002年3月)

「耳寄りな話」

私は、両耳とも難聴です。

しかし日常生活で多くの困難を有しているかというと、さほどでもありません。
とは言っても、この「さほど」が曲者でありまして、私自身が「?」と思うこともあるし、周りの人間が「??」と思うことは多々あるようです。

一般的に「難聴」と聞くと、その言葉のままに「聴き難し」というイメージが思い浮かびます。
これは難聴者である私自身もそう思うのですから致し方ないのですが、このイメージと実際の体感とが微妙にずれていて、言われてみて「そうだった。俺は難聴だったんだ。」と自覚する次第です。
しかしこの「聴き難し」は実のところ大変複雑で、様々な実態と個人差があって、一概には表現できないのです。
私が病院の先生に聞いたところによると、生来からの聴覚障害を別にして、一般的な難聴は「全体の聴力の低下」と「部分的ヘルツの欠如」だそうです。

この「全体的な聴力の低下」というのは、「聴き難し」というイメージにぴったりで、お年寄りの耳元で、「お・じ・い・さ・ん・!タケシさんが、こ(来)らしたばい。」と大きな声で呼びかけたり、「ちょっと、テレビの音が大きくない?」と注意を受けたり、「そんな大きな声出さんでも、聞こえるよ。」と言われたりする事がそれです。
聞こえるには聞こえるけれど、ボリュームを少しずつ下げていくように、本人は自然とその世界と折り合いつけていっているので、ある時突然他者の世界との断層が明らかになるような場合です。
私の場合もそれがあり、CDの音が大きいとか、電話で話している声が異常に大きいとか指摘されます。
知らず知らずのうちに、「世界音」が低くなっているようです。

それでも前者の「聴き難い」は、自分も他人もそうと知ればともに理解しやすく、お互いにその世界を理解するにはさして時間もかかりません。
問題は、後者の「部分的ヘルツ(周波数)」が聞こえないパターンです。
分かりやすく言えば、ある「音」や「ことば」や「低音」か「高音」が聞こえないのです。

私の場合、聴力検査で得たグラフを見ますと、全体的に感度が落ちている(前者の「聴き難し」)のに加えて、「低音」がとくに聞こえていないし、いくつかのヘルツ(音)が極端に聴こえていません。
また右耳はヒドく、左耳がかろうじて実生活を支えているようです。
そういえば、自分では気づかないうちに電話は必ず左耳で聞いていますし、ヘッドホンを当てると頭の真ん中よりもやや左側で音が集中するので、スピーカーバランスを変えて聞いています。
ある「音」でいえば、時計のチクタクという音は、耳に当てても両耳とも聞こえませんし、初対面の人との会話は、脳内での音声調節データーがないためか、よく聴き取れず、私はただへらへらと笑っている事が多いです。

こうやって書くと、かなり重症患者のように思われるでしょうが、先にも書きましたように徐々にこの結果になってきているので、自分ではこれが自然な「世界音」として自覚しているのです。
ただ、ボソボソと低音で話される方との会話とか、ひそひそ話はほとんど聴き取れません。
一番面白そうな、声をひそめた「ココダケ話」が、

「だからさ、あれって・け・・な・っていうか、・・ろ・い・だろ。しかし、彼女も凄いよな。・き・り・だもんな。へへへ。」
「えっ?何?」
「だ、か、ら、彼女が、・は・・し・なんよ。俺なんか、とてもとても。それなのに・ろ・・て・だもんな〜」
「ごめん。彼女がなんだって?」
「バカだな。こんなこと大きな声で言えないだろう!他の人に聞かれたらどうすんだよ。」
「すまん。それで彼女が・・・」
「もういい!」
「そっ、そんなぁ〜」

私はこの時ばかりは、人生を随分と損をしているのではないかと思ってしまいます。

しかし、この奇妙な感度の「両耳」を、私は心から愛しているのです。

ありがとう。
右耳さん。左耳さん。
ありがとう。
右手さん。左足さん。両肩君も括約筋さんも、ありがとうね。
ありがとう。
腹膜さんに、肝臓君、毛細血管さんや体内微生物達・・・
尾てい骨さんや鼻の両穴君にはいつもお世話になりっぱなしで・・・
髪の毛さんには毎日のストレスを一身に背負っていただき、白くやせ細って行くさまにはお礼の言葉もありません。
脳さんにいたっては、いつも無理難題を吹っかけては、能力以上の奮闘にアップアップしていたことは、私も知っていました。
急場であるのにちっとも遊びの手を緩めない私に、ほとほと愛想が尽きたのか、この頃では思考停止で意見してくれてましたね。
もちろん、薬指の指紋君やマクロファージさんや今にも剥がれ落ちようとしている角質化した表皮さん達、その他大勢の身体さん達も忘れていませんよ。

ありがとう。そしてこれからもよろしく!

三原拝
(2002年2月)

「雪原の果て」

私は、父の仕事の都合で青森で小学時代を過ごしました。

いつ頃からか、学校から帰った私は一人町のはずれにある小さな床屋さんに、毎週出る少年誌を読ませてもらうために通っていたのです。

重く垂れ込めた雲の下、見渡す限り雪で覆われた畑の中を、先週読んだ話を思い出しその話の展開に胸を躍らせると同時に、刺すような寒さに耳を押さえ、どこか自分の世界と漫画の世界の断絶に絶望的な気持ちも感じていました。
遠くで電線が悲しげな声で鳴き、踏みしめる度にギュッギュと這うような音を立てる雪原を睨みながら・・・・

ガランと音をたてて入ってくる私に白髪混じりのおじさんは、「おう」と小さく頷き本箱を顎で指し示すと、自分の読みかけの新聞に目を落とすのでした。
わたしはぺこりと頭を下げると、雑誌を手に取り、店の隅にある古びたその場所に向かいます。
幾人もの人たちが座ったであろう長椅子は、腰をおろすと不自然にお尻が沈み込み、薄いビニール皮を通して感じるスプリングが妙にこそばゆかったものです。

たまにラジオが音楽を流している時がありますが、いつもはストーブの上でシューシューと声を上げているヤカンの音だけが聞こえる静かな店内でした。
床屋さん特有のパウダーや香料の匂いが漂い、蒸しタオルの入れ物からは白い蒸気が音も無く流れ出ています。
どういう訳かお客さんがいる記憶が無く、いつもおじさんと私だけがしんとした店の中でそれぞれの読み物に目を落としていたのです。
眠たくなるような心地よい時間の中で・・・・

その当時中学校は、坊主頭が当たり前でした。
だんだんと入学式が近づいてくると、周りの子供達は一人また一人と露わになった頭の形を指差し、笑い合うようになっていました。

そんなある日、とっくの昔にペンキが剥げ落ち、気をつけないと指を傷つけてしまうその扉を押し広げ、いつもの店内に入っていったのです。

「おじさん。今度俺、中学生になるんだ。だから・・・」

「そうか。」

ただそれだけを言うと、椅子の方に私を呼び、ゆっくりと首掛を巻いてくれました。

店内は時計の音が妙に大きく響き、私は鏡の中の初めて見るような自分の顔と、少し寂しそうなおじさんの顔を交互に見ながら、不思議なことに、いつも長椅子から見ていたおじさんの横顔を思い出していたのです。

しばらくすると、首の周りを刷毛で掃いてくれて「さあ、終わったぞ。」としゃがれた声で言うと、玄関先のレジの所に行きレジ下からガムを取り出し私に渡してくれました。

「ありがとう。」

「ああ。」

おじさんは、ゆっくりと扉を開けて私を外に促し、一瞬何かを言いたそうにしましたが、何も言わず静かに扉を閉めました。

何かが終わり、もう後戻りできない・・・・

泣きたいような気持ちを必死で押さえ、家に帰りながら食べたガムは、ひりひりとした痛みに近い初めての「ハッカ入りのガム」でした。
(2002年1月)

ゴーグルと秋の風と10円硬貨

私は一時期、某新聞社に身を置いていたことがありました。

ある日のこと、ほぼ夕刊紙面の記事原稿が締め切られ、後は編集と印刷を待つばかりのほっとする時間帯になったその時です。
1本の電話が鳴り、火事のニュースが飛び込んできたんです。
にわかにデスクは色めきだし、紙面記事の指し止めや紙面確保に編集室と怒鳴り声が飛び交い始めました。

「ノリ!現場に行って、写真を確保しろ!」
「はい!」

新米の私は、社のカメラを掴むとバイクに飛び乗り一目散に・・・

信号無視ぎりぎりのタイミングで道を横切り、それこそ植木鉢をひっくり返さんばかりに路地を曲がり、風を切り裂いて坂を駆け上り、1秒でも早く現場へ・・・現場へ・・・・
バイクを飛ばすこと15分、ただひたすら走り続けていた私は、突然!!そう、天から降ってきたように突然!あることに気が付いたのです。
キュルギュルとバイクは悲鳴をあげて止まり、近くの電話ボックスに飛び込み、受付嬢が受話器を取ってくれることをただ祈りながら・・・・・

「はい。○○新聞社です。」

−その声は、地獄の底から響いてくるような、鬼の局長−

「あの〜三原ですけど。今火事の現場に向かっているのですが、えっと〜その〜」
「なんだ!はっきり言わんか〜!」
「それが・・・現場の住所を聞くのを忘れたのです・・・」
「なっ、ナニ〜!ばっ、ばかも〜ん!!!!それでお前は、何処にいるんだ!」
「**町の見晴らしがいい公園横です。」
「何故そこに居るんだ!」
「さあ??」
「さあ?ってお前!ばっ、ばかも〜ん!」

夕刊には、他社とは一味違う沈火した現場写真が小さく紙面を飾ったのでした。

しかし、今でも時々その時のことを思い出してみるのですが、あのバイクで疾走していた時、私は何を考えていたのでしょうか?
何故あの角を曲がり、あの方向にハンドルを切り、アクセルをふかしスピードを上げ、何処に向かおうとしていたのでしょうか?
15分近く走れば完全に町の郊外に行き着きますよ。そこでようやく気が付くとは?
単に私がアホなだけなんでしょうか?
まあ、そう言われたら弁解の余地も無いのですが、ただ、全く無情報のまま高揚した気持ちだけで駆け抜けたあの「快感」が忘れられないのです。
あれって、何だったのでしょう?
気持ちよかったな〜

その後社内では、「フリテン君」と呼ばれていました。
(2001年12月)

曇り空の三本杉

それは知らず知らずのうちに、「自ら」歩み寄っていたのかもしれません。

どうもこの頃、怒りっぽくなってきたようです。
表情や露骨な言葉では出していないつもりですが、心が急にササクレ立つのです。
イライラなどという、感情の背景でいつも流れているようなものとも違う気がします。
普段は仕事のことや、身近な話題についてぼんやりと考えていたり、身体のしんどさと照らし合わせて、今日こそは早く寝て睡眠をとらんといかんな〜などと悠長に思っているのに、少し仕事が忙しくなったりちょっとしたことで、一気に心が硬質化してしまうのです。

この心の急変や落差自体、自分でも驚いてしまうのですが、それよりもそのレッドゾーンに入ってしまうまでの心の余裕が、ほとんどないことに愕然とします。

他人の何気ない一言です。普段よく店で行われている、なんて事ない行為です。仕事が重なるのも、単なる偶然です。それぞれに、何も意図はありません。他人が気付かないものを、なぜそんな事分からないんだと、俺が腹を立てたってしょうがないではないですか。

世界で行われている戦争に対して、自分が反戦の気分で理由を紡ぎ出しているつもりでも、実はアメリカに対する(被害者への具体的な想像は無しに、単なるアメリカと言うブランドに)妬みや恨みがあって、彼らの戦争行為に異を唱えているのではないだろうか?
理性で判断しているつもりでも、その解答は私の暗部の代理表現なのかもしれません。
ニュートラルな判断地点など無いのでしょうが、それにしても無意識な荒野が露骨に顔を覗かせ、短絡的な「確信」に結びついている危惧を拭い去る事が出来ないのです。

このストレスは、十分家族に影響を及ぼしていると思います。八つ当たりに近い感情の発露は、彼女に向いている事は間違いないだろうし、子ども達も知らず知らずのうちに俺の顔色を見ながら接しているのかもしれません。
確かに腕力による暴力は無いかもしれませんが、言葉による暴力は身に覚えがあります。
いつも対岸の火事気分で語っていますが、己がDV(ドメスティック・バイオレンス)や児童虐待の張本人ではないだろうか?

何故なんでしょう?

やっぱお金なんでしょうか?
経済的に余裕があれば、あわせて時間にも余裕があれば、こんな衝動的に突き上げてくる怒りは無くなるのでしょうか?それとも、ちょっと病気ですか?
長年けっこう精神的にも無理を重ねてきた気もするので、知らないうちに病の領域に足を踏み入れてしまったのだろうか?

世界意識が同様に、想像力ある領域に留まっている閾値が低くなっているのかもしれないと、自己弁護の理論を捻り出したりもしますが、私が生きている痕跡は手が伸びる範囲で確実に刻み続けており、その責任は虚無であろう「私」で何とかケリを付けたいと思っているのです。

確かに、店に来る子どもの無邪気な表情やメールでの心あるやり取りに、安堵や癒された気分になることもあります。
朝からベランダで小鳥がさえずり、脅かさないようにそっとレースを開けて覗いてもいます。
通勤途中の街路樹が色付き始め、落ち葉を掃く老人の優しいしぐさに自分の時間の性急さを戒めることもあります。新聞で毎日書きなぐられている信じられない事件に、疼くような心の痛みも感じます。
そして、それらは別に、偽善や対外姿勢でなく、本心としてそう感じています。
しかし突然、その世界が一気に背景に飛び去ってしまうのです。

不安な世の中と言われて、皆それぞれに「言い知れぬ怒り」を持て余しているのかもしれません。
しかし、今持て余しているのは、他のだれでもなく自分の心の悲鳴です。

今、私が取り得る唯一のことは、この「悲鳴」に耳を澄ませてあげることだと思っています。
(2001年11月)

リアル

世界の歯車が、大きく回転した事件が起こりました。

内実については、連日の報道と今後の進展に譲るとして、あのシーンを見たときの正直な感想を少しだけ書き留めておきたいと思います。
あの事件は翌朝の新聞を読んで知り、慌ててテレビをつけると飛行機がビルに突っ込んでいる映像が流れていました。
えっ、と息を飲んで、何度も流れる場面をチャンネルを変えながら見ていますと、ポロっと子どもが「かっこいい!映画みたいだね。」と、明るい声で言ったのです。

なにっ!と一瞬思ったのですが、よく考えるとそこには単純でない問題がはらんでいるように思われます。
私達は、飛行機がビルに突っ込んだり、ビルが崩壊したり、迫り来る噴煙に逃げ惑う群集を何度も目にしています。大都市に降り注ぐ隕石群も、大地が割れて車やビルが飲み込まれてゆく様も、巨大怪獣やCGによる魔物が街を壊滅させていくシーンも、ビール片手でしっかりと見ています。

映画と現実は違います。
しかし、青空の下にすっくと立つビルも、その磨きこまれたガラスの反射も、すべるように飛んでくる旅客機も、突っ込んだ後のオレンジ色の大爆発も、映画と同じでした。

現実は、映画と同じだったのです。

もちろん、同じだと言う言葉には大きな錯誤があります。
紙ふぶきのように舞い落ちてくる人間も、路傍のいたるところにに張り付いている肉片も、6000人以上があの一角に居た事が分かっているのに、200体ぐらいの遺体しか見つからない現実も、映画では見れません。

しかし実際にはそんな現実も、我々は見ていません。

もはや視覚的な現実は、既視感、どこかでみた映像以外の何ものでもないのです。
その事は、何回となく問い続けてよい問題だと思います。

テレビの中で繰り広げられた惨事に対して、映画同様のカタルシスやかっこよさを汲み取った子どもに、あの映像の中に多くの人命を読み取れと諭すのは簡単です。
しかし、その想像力を育むのは難しい現代になっています。

世界が足並みを揃えて、報復戦争に軍靴を鳴り響かせています。
その大人の選択は、他者の生活や信仰、他国民や他民族、他文化、ミサイルや銃弾に逃げまどう家族、そしてそこに生活している人々の貧困や悲しみやささやかな喜びと人間の命を、見えないけれど「現実」として想像しているのでしょうか?
(2001年10月)

再就職

失業率5%のニュースが巷を走っていますが、当然ながらサラリーマンばかりでなく自営業者の廃業もこの数字の一翼をになっている事は、同業者の相次ぐ閉店や撤退を聞くにつれ、生々しさを伴って伝わってきます。
20年ほど前でしたら「力仕事だろうが訪問販売だろうが何でもやって生きていける」と甘い幻想に楽観もしていましたが、現実にこの齢を重ね、実際に何が出来るのかと真剣に考えてみますと、本が好きなだけの古本屋親父には他種業へのつぶしもきかず、人並みのことは何も出来ないことに、はたと思い至ってしまうのです。

ある作家の隠れた名作や絶版本、自分の店にある数千冊の本の所在の記憶、倉庫に山積みになっている段ボール箱の何処に何が入っているか、挙句の果ては他店の書棚にある本まで覚えていても、転職の際に何の役に立つのでしょう?

Tさん:「すみません。この洗濯機が動かなくなったんですけど修理してください。」

徳さん:「いらっしゃいませ!・・・・う〜ん。パネルがいっぱいあるのは分かるのですが、ネジも少なくてこのドライバー1本では直りそうもありませんねぇ。・・・・・どうですか奥さん!この際S書店の奥から2番目にある棚の上から3段目の真ん中より少し右側に『上手なせんたく』堀志津著婦人の友社がありますから、それを読んでみたらどうでしょうか?」

Tさん:「・・・・・」

Rさん:「今度のボーナスで冷蔵庫を買い換えようと思っているのですが、どんなのがあります?」

徳さん:「今回は、各社ともずらりと新タイプ・新機能を揃えておりますので、どんなご希望にも添えると思いますよ。・・・・・ところで、冷蔵庫と言えば阿刀田高の『冷蔵庫より愛をこめて』はお読みになられました?著者が『ナポレオン狂』で直木賞をとる前の処女短編集で、ひやりとしたブラックユーモアは、上手いもんです。講談社文庫で読めると思いますけど、探してみましょうか?」

・・・・・・・・やっぱ駄目ですよね。

つい先日家内ともこの話題になって、彼女にお伺いを立ててみますと・・・

「あんたが出来ることね〜・・・どうでもいいことや、役に立たないことはよく知っているけど、今の流行は全く知らないし、講釈ばっかりで体を動かせばやれ背中が痛くなったとか、熱が出たとか大騒ぎするだけで・・・・」

「・・・・おいおい・・・」

「あっ、あれなんてどう?香港に行ったときに立ち寄った足のつぼマッサージ屋さん。」

「なるほど〜!しかし健康ブームだからいいかもしれないけど、俺はツボとか全然分からんし、何も出来んぞ・・・」

「ばかね。最後までちゃんと聞きなさいよ。」

「はい・・・」

「ほら、あの時に店のオーナーらしい女の人が店の受付にいたでしょ。ばりっとスーツなんか着て、スタッフに睨みを利かせながら、お客さんには細かい心配りをしていた人。」

「おお、そういえば居たね。そうか、その役を俺が・・・」

「それは私に決まっているじゃないの!」

「えっ、じゃあ俺は?」

「足をもんでもらう前に、漢方のお湯に足をつけてリラックスさせてもらったでしょ。その薬湯を持ってきたり、お客さんのお水を次々とお代わりして回っていた人が居たじゃない。あの仕事だったら出来るんじゃない?」

「う〜ん。確かに、あれだけだったら出来そうな気がするけど・・・ちょっと地味じゃない?」

「ところがそうじゃないのよ。」

「と、いうと?」

「こんな不況だから普通の足つぼマッサージじゃ駄目なのよ。そこで考えたのが、店員のコスプレよ!」

「コスプレ!?コスプレのマッサージ屋か!・・・・で、俺はどんな衣装を身にまとって?・・・・」

「フフフ・・・・・なんだと思う?やっぱり新しいものも、日本の伝統文化に根ざしていると受け入れやすいのよね。・・・・ふんどし!これ一丁!これはうけるわよ〜」

「ふっ、ふんどし!・・・・身一つで立っている潔さはあるけど・・・・少し考えさせて下さい・・・」
(2001年9月)

深淵なる空間

先月の「恋の予感」について数多くのお問い合わせいただきまして、誠にありがとうございます。

しかし、私は「恋」についてのポエシーな話題と思っていたのですが、どうも「トイレ」談義と思っておられたようで、次のトイレの話はいつですかとか、トイレには他に何がありますか?という質問が・・・・
え〜い!こうなったらご期待に応えて、もう一発トイレ内での思索者レポートです。
なぜこのような大反響があったのかと考えてみたのですが、多分皆さんのトイレにも他所とは違う不思議なものが生息していて、徳さんの所にはそんなものがあるのか、私のところなんて・・・と感応しているのではないでしょうか?
そう言えば、色々な所のトイレを利用させてもらっていますが、意外な人のところに画集が置いてあったり、オシャレだと思っていた人のトイレが殺風景だったり、掛け算やローマ字表が張ってあってがんばってまんな〜と感心したり、結構楽しいものです。

なんと言ってもダントツは、素敵な短文が載っている日めくりと、格言付きのカレンダーでしょう。
実家がそうなんですが、こんなものと文句言うわけにもいかず、またかと思いながらも座ってじっくりと読んでしまうんです。

星野富弘さんの詩画集なんて良いですよね。心和むやわらかいタッチと色使いの絵、それに何気ない言葉の中に、はっとさせられる詩文はありがたいものです。
しかし実は・・・・しばらくすると次々とめくるその手ははたと止まり、考え込んでしまうのです。
星野さんが絵筆を口にくわえ、一色一線描いてくれたというのに、それを読んでいる私は・・・・なんていう格好で・・・・
こんなポーズと状況で読ませてもらっていいのだろうか?と、思わずわが身を眺めて見て・・・・・申し訳ない・・・・
すみません!今度はちゃんとした場所でお目にかかりましょう!と、慌てて水を流して逃げるように立ち去ってしまいます。

こうなったら格言・名言を読んで日頃のだらしない心を戒めようと、カレンダーを眺めて見ます。
徳川家康の「人の一生は、重き荷を負うて坂道を行くが如し。急ぐべからず。」これですよ。現状況にも、ぴったりでないですか。
産みの苦しみにも似た力の入れようと、急いではいけないという忠告もツボにはまっています。
そうです!終わりのない坂道もないし、その坂道を登りきったあの爽快感は、・・・・・ね!
これはトイレ標語ベスト1ですよ。

と、ここまで考えて・・・上り坂の次には必ず下り坂があって、その後は重い荷物を持っているもんだから、つんのめりながら足は回転数を上げて前に前に・・・・・助けてくれ〜と叫んでも、お前の人生はお前自身が責任を持ちなさいと覚者の声が響き渡るだけ・・・・
もうこれから俺の人生は、坂道を転がる石の様に落ちてゆくばかりなのだろうかと、暗澹たる気持ちでトイレを後にするのです。ああ〜〜

皆さんのトイレには、どんなものが?
皆さんのお薦めがありましたら、教えて下さい。安らかな時間を過ごす為に・・・・・

最後にもうひとつ我が家のトイレにはどうも普通でないモノがごろごろしているようで、この前はコウタロウが「お母さん〜トイレにウンコがある!」
「誰かが流さなかったんでしょ。流しときなさい!」
「違う!外に2本(!)出ているんだよ〜」
「え〜〜〜!」
彼女が慌てて飛んでいくと、本人はロダンの構えでそれを眺めていたそうです。
「ばかね!何でこれがウンコなのよ。よく見なさい!」

なんとそれは○○だったのです。
何だと思います?
(2001年8月)

恋の予感

2週間ぐらい前から、トイレの中に小箱が置いてあるのです。
小さな花がいっぱい書かれている手作りの箱で、蓋がついていて中に何かが入っている様子です。
その蓋には、「恋の予感」と難しい漢字を写し取った拙い文字が・・・・
「恋の予感」がトイレに。

トイレを利用する時にはいつもその箱に目が吸い寄せられて、なんだか落ち着かない気分のまま・・・恋の予感って?
箱の中には何が入っているのだろう?
勝手に覗いたらやはりまずいだろうか?
よく見ると箱には花だけではなく、何かわけわからない文様が描かれているし?
そもそもなんでトイレの中にあるんだ?
たいがい自分の部屋か、ノートか何かに書きとめているのが普通じゃないか?
他の家族はなんと思っているのだろう?
何で誰もなんとも言わないのだろう?
こっそりとモモコに聞いたほうがいいのだろうか?
相手は誰だ?ちょっと早すぎやないか?
家内は知っているのかな?
夕飯のときに切り出してみようか?
でも何と言って・・・やはり何気なく普通に・・・でも恋に関するものだから・・・
ちょっとは構えたほうが・・・しかし食事中にトイレの話を・・・
しかし、何で俺はトイレの中で悶々と思い悩まないといけないんだろう?
そういえば恋の予感って、いつだったかな?
どんな感じだったっけ?
えっ、ちょっと待てよ。忘れてしまったのか?
・・・・・・・・・・・・
あの子に惹かれた時だよな。
いや。まだあれは本当の恋じゃなかっただろう。
あれはまだ「恋」というには早くて、次のあの子だろ。
う〜ん。思い出してみると、なかなか恥ずかしいな〜
よくもまあ、真剣に・・・・
うん?でも「恋」ではなくて「予感」だよな。
「恋の予感」か・・・・やっぱあれだよな・・・フフフフ・・・

「お父さん!まだ?ちょっと長すぎない?早く出てよ〜」
「・・・・・・この箱は?」

皆さんの小箱の中には、何が?
(2001年7月)

香港浪漫

突然ですが、香港に行ってきました。
ここ数年続いた商売のあたふたや、一ヶ所に留まっていることに対する私個人のフラストレーションの限界で、オリャ〜ッと・・・・

子供達はおばあちゃんに預けて、夫婦2人での久しぶりの旅行でした。
フルムーンにはまだまだ遠いですが、あのJRのポスターのように自然に寄り添い、手も触れるか触れない微妙な空間を保ちながら、控えめな笑顔でにっこりと・・・・
・・・・そんなわけないでしょう!やっぱ無理ですよ。あんな穏やかな旅を楽しんだり、軽やかな荷物で仲良しこよしだなんて!

私はひたすら新世界の息吹を感じてみたくて、
あっち行こう〜!いやいやこっちだ〜!
この路地はどんなになってる?
おっ、これは面白いな、写真とっておこう。
凄いな〜ほらほら・・・
なんだ!竹組みは〜。

彼女はというと・・・
お土産はなんにしよう。
えーと、00さんのは買ったし、XXさんには違うものにして・・・
この料理何かしら?私食べられるかな?
あの足マッサージは最高ね。疲れが全部とんじゃった!

結局怒涛の珍道中でしたが、それぞれがそれぞれの思い出を作ることが出来た旅行でした。

本当だったら帰ってきて、一生懸命仕事に精を出さなければならないのでしょうが・・・・
今度はどこに行こうか、密かに考えている私です。
(2001年6月)

無音の窓

今年の初めに「音楽を聞こう」と決意表明してから、多くの人から編集テープやCDを送っていただいたり、薦められたりしました。この場を借りて御礼申し上げます。
今後も音楽三昧を目指していますので、推薦テープ等遠慮なくバンバンと送ってください!
ジャンルは全然こだわりません。自慢ではありませんが、何でも聞きます。ポップス・ロック・クラシック・フォーク・ジャズ・民族音楽・洋楽・邦楽・雅楽・ラップ・前衛音楽・・なんでも、かんでも・・・

そんな中で、改めて気付いたことがありました。
それは生活の中の消音というか、沈黙の時間がほとんど無いということなんです。

勿論完全な無音などないのでしょうが、あなたは今ほんの少しでも、しんとした瞬間を思い出せますか?
近日中に沈黙に耳を澄ませた事あります?静けさの中で、息をゆっくりと吐き出した覚えが・・・?

私は気付くまで、そんなこと全く失念していました。
朝の喧騒から、店の有線、車の騒音、テレビの笑い声、ステレオやラジオから流れる音楽・・・
視覚からの情報はこれでもかこれでもかと押し寄せてきていますが、聴覚からも恐ろしいほどの勢いで流れ込んでいたのですね。

ちょっと耳を澄ませてみて下さい。沈黙という極上の音楽に!
そして沈黙が寄り添っている音楽に!
(2001年5月)

良いですね〜桜サク春

満開です!桜、桜、桜が・・・・良いですね〜。
近くの公園、遠景の山々、風に舞う花びら、霞がかる空間にぼんやりと浮かぶ幹、柔らかい春の陽射しを受けて佇む姿。1本でもよし。群れてもよし。大きく張り出してもよし。数片だけが寄り添ってもよし。

この季節は、人々の心が騒ぎ立ち、両手を振り上げてみたり、口を大きく開けてみたくなったりします。
良いではないですか。
サクラとともに訪れる胸騒ぐ季節なんて、堪能しましょうよ。

元気だった人はより一掃力を込めて、少しうな垂れていた人は薄桃色の木々を見上げて空の青さに一瞬でも気付いてみましょうよ。
好調でも沈んでいても、とりあえずこの季節に仕切り直しをしてみましょう。
どうもそんなことを教えてくれるのが、この満開の桜のような気がします。

花粉症も流行っていますし、各地で地震も頻発しています。関係者の方には、心よりお見舞い申し上げます。
1日も早く春の風を心地よく思われる日がこられますように・・・・
(2001年4月)

夢のような夢

寝床で妙案が思い浮かぶことって、良くありますよね。
「そうだ!そうだよ!やった〜!」って・・・・
ナイスな考えが思い浮かんだり、あの子と上手くいって「エッ、本当?イイの〜?」とか・・・
でも悲しいかな、寝て起きた後にそのことをすっかり忘れてしまっていることがほとんどです。
「はて?なんだったかな〜?何かごっつい良かったような気が・・・」
これって物凄く悲しくて、何時までも気になってしまいます。

悲しいと言えばこの間の夢の中で、月末の支払いに頭を痛めているのですが(ゆっ、夢ぐらいそれこそ夢を見させてほしい!)ある預金通帳が見つかって、その中になんと定期が・・・・
「そうだった!すっかり忘れていたぞ。よっしゃこれで今月は大丈夫だ!!」と、大喜びするのですが・・・・
もちろん朝がくると、そんな定期はあるはずもありません。

しかし、そんな時に限って目が覚めても覚えているのです。夢の中で喜んで、小躍りしている体感をそのまま・・・・

皆様の素敵な夢をお祈り申し上げます。
(2001年3月)

かっ、身体が・・・・

何の前触れもない襲来でした。
気が付くと全身は、彼らに完全制圧されていたのです。
彼らは、悪寒と言うアジテーションを繰り返し、こちらからの交渉と一切の食べ物を完全拒否しました。
私は必死の抵抗を試み、湯冷ましでかろうじて喉を潤すもつかの間、フルボリュームの躍動感溢れる腸内の音とともに、すべてを排斥してしまうのです。
全身の関節という関節にはバリケードが張り巡らされ、交通と情報は混乱し収拾がつかなくなってしまいました。
身体の中央部は今や完全に解放区となって、燎原の火の如くその自由なる子達は全身を駆け巡り始めたのです。
もはや何の手立てもありません。完敗です。

そもそも、頭部の中央集権さえ守ればどうにかなる、と考えていたのが大きな過ちでした。
彼らは脳には、一切手出ししなかったのです。
身体の激変と脳の中でまだぬくぬくと残っている日常が、同じ器の中の変化だなんて誰も気付きませんでした。
我らに思考のアヘンを与えたまま、着々とその変革が行われていたのです。
革命が突然立ち上がるわけでないことは、愚鈍な脳も知っていたつもりでした。

「まだ大丈夫。心配には及びませんよ。」
「私の元にはそのような情報は、届いておりません。」
「そう言う人もいるでしょうが、そう思っていない人も大勢いるんですよ。」
「だって、巨人は勝ったじゃありませんか。」

そしてその革命的な朝がやってきたのです。

皆様もお体ご自愛下さい。
(2001年2月)

今年の抱負は

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

よく言われるように大晦日から新年にかけての二日間は、何の変哲もない48時間です。
しかし、ただ1点だけは違う気がします。
たぶん皆さんもそうでしょうが、その頃になると、なんとなくこの1年を振り返った総括を自然としてしまうのです。
大概は代わり映えがなかったり、あっという間だったり、印象的な事件が家族の共通の思い出になったりとかでしょうが、とにかく1年間を思い返す重要な1日だとは思うのです。
これが5月18日から19日にかけてとか、11月4日から5日の日に1年間を振り返る気には、どうもなりません。
その意味を突っ込んで批判するよりは、便乗して振り返り、新しい1年のイメージを作ってみるのも有意義ではないかと思っています。

さて、振り返った総括もありますが、新世紀にまたがった今、辛気臭い話より未来へのイメージを語って新年の挨拶に変えたいと思います。
と格好つけてみましたが、新年の抱負は大概が去年の反省とか、出来なかったことに相場が決まっていまして、私の希望も例外ではありません。

まあ、前置きはいいとして私の今年の抱負は、「音楽を聴こう!」です。
そう音楽を聴こうです。
今までも生活の中には、歌謡曲からガムランまで流れてきていましたが、どうも音楽が自分の重要な一部であった時期とは違う、何かぐっと下がった背景になっていたように思うのです。
だからと言って、必死になって音を探すと言うことにはならないでしょうが、ただ「音楽を聴く」という心が生活の中にあれば良いなと思っています。
「生活に、音楽を聴きたい心がある。」ねっ。いいじゃないですか。どうですか?皆さんも?
(2001年1月)

ドックイヤー

12月になると決まって聞こえてくるのが、「はやいですね〜。ついこの間2000年問題だとか言って、正月を迎えたばかりなのに・・・・」
おいおいまたかよと思いながら、実のところ深く同意してしまう気持ちがあるのも事実です。
全く、あっという間です。

この頃の情報社会のスピードを、「ドック・イヤー」と言うそうです。
犬は人間の7倍のスピードで年をとり、人間の1年は、犬の7年分なのです。

コンピューターの開発と情報化の推進が顕著になり始めて、たかだか10数年です。
これをまともな人間年で考えると、10数年の7倍、つまり100年近い時間が流れたのです。
な〜んだ。一気に100年分の問題がここ数年で襲いかかってきていたのか、道理で訳分からないはずだよ。
100年の間には、大戦が2回もあったし、親子関係も寄って立つ考えの基盤も全然変わってきています。
そんな問題を全部背負って、飄々と生きてゆくのは常人ではちょっと無理ですよ。

時代の流れについて行けないし、かといって開き直った悟り顔も長くは続きません。
やっぱ、おろおろと戸惑いながらでも、身の丈にあった手の届くところの問題を拾っては、家族や皆さんの幸せをささやかに願ってゆこうと思います。
寒さも厳しくなってきます。
皆様もお身体ご自愛下さい。

IwishyouamerryChristmasandahappyNewYear.
(2000年12月)

パラリンピック

皆さん、いかがお過ごしですか?
10月は全く行事の月ですね。
秋祭りあり、運動会あり、様々な大会の大詰めありで・・・・
パラリンピックには完全にはまって、毎日のダイジェスト版は録画にとって繰り返し見ていました。
スポーツ化の是非はともかく、選手達の頑張りには感動のしっぱなしです。
あの明るさ、スピード、高さ、涙・・・・
運動会やアジアカップでもそうなのですが、あの身体性は病んできた時代の精神に必要なのかもしれません。

頭で身体を理解してきた時代は、もう終わりなのです。
だって、頭も身体の一部なのですから。
(2000年11月)

オリンピック

今年はよくオリンピックを、見ていました。いままではあまりオリンピックなど興味が無く、ダイジェストをみて満足していたのですが、今回は日本の応援に関係無く、色々な競技をあれこれと覗きみていたのです。
超一流の身体技や、ドラマや涙がふんだんにあって、そのことはもちろん感嘆の連続なのですが、それとはまた違った思いに囚われてもいました。

当たり前ですけど、どの競技をみても本当に多くの人が、競技を見つめているのですね。
色鮮やかな服装や笑顔、手を振ったり一緒にウェイブをしたり・・・・数百の国籍や様々な人種の何万人という人たちが。
もちろん、オリンピックどころでない人たちも世界中には多くいます。

しかし、日頃は身近な人達の顔か、まったくのっぺらぼうのネット世界にいるので、多数の顔が具体的に見える「世界」というのは、無性に嬉しくなるのです。
そうです。ぼくらは、あの顔や声援と一緒に生きているのです。
(2000年10月)

2000年9月吉日

この前の日曜日に、久しぶりに家族で釣りに行ってきました。
高揚した気持ちを抑え、いたって冷静に準備を重ね、早朝より眼前が海である知人宅に向かいました。
天気も良好で、みんなヘラヘラしています。
さーて音楽音楽と手を伸ばし、我が家のマイブームである倉木麻衣のアルバムを探すと、無いんです。
ああ〜家のデッキに入れたままだ〜!
「エ〜!取りに帰って〜」という声を「面倒臭いから、もうだめ!何か他のにしなさい!」
車の中をごそごそと捜し、結局モモの好きな中島みゆき(!?)になってしまいました。
その後は延々と1時間ばかり、
「せつなくて、せつなくて・・・・」
「この恋が終わっても・・・・」
「女には、女のふるさとがあるという・・・・」

車内の大合唱を聞きながら、なんかちょっと違うな〜と一人考え込んでいました。
(2000年9月)

夏の日焼けが・・

今年はなんという夏なのでしょう!暑いです。とにかく暑いです。
まだ夏が始まったばかりだと言うのに、もうすでに夏ばて気味です。

そればかりではありません。連日のプールのおかげで、背中も腕も皮が剥け、醜いマダラ模様なんです。
そう言えば、子どもの頃って皮が剥けていたかな〜?
毎日灼熱の太陽にあぶられ、無心に水遊びの興じて、汗をぬぐうことも忘れて遊んだあの夏。確かに真っ黒になっていました。
しかし、皮が剥けていた記憶は・・・・?

私は先日、その剥けた皮を顕微鏡で見たんです。
いろいろな倍率で見たのその皮は、少し・・・・・
(2000年8月)

2000年7月吉日

もう、あっという間に2000年も半年過ぎてしまいました。
え〜!と驚いた人もいるでしょう。でもゆっくりと思い出してみて下さい。やはり半年分の思い出は、ゆっくりと積み重なっているような気がします。
2000年問題があるとか言って・・・・花見は今年も夜桜だったし・・・・ゴールデンウィークは東京へ大旅行で・・・・
さあ7月ですよ。夏の到来とともに、子ども達は夏休みに突入して、喧騒と汗の毎日がもうすぐそこに
待っています。
がんばってゆきましょう〜。

おっとその前に、7月7日は七夕さんですね。笹の葉に短冊を飾り、願い事を書いたじゃありませんか。思い出しますね〜。
えっ、なんだか変?妙にハイテンション?
いや〜そんなことないですよ。わたしはただ七夕の日は、ゲームのファイナルファンタジー9の発売日だから・・・・予約したコンビニに取りに行って・・・・初回特典のキャラクターの人形もあるし・・・・・
7月の読書感想文は、ないかもしれません。
(2000年7月)

親離れか?

何とか無事に連休の東京旅行をこなし(楽しい思い出の数々でした)、一気に浮世に帰ってきています。
また是非機会があったら、東京に行きたいです。

ここ数週間の週末は、コータとモモは友人の家を泊まり歩いていて不在なんです。これって早くも親離れでしょうか?
それとも私の遊牧民の血が受け継がれ、発動し始めたのでしょうか?
そう言えば私も友人の家を連泊して、晩飯と風呂にだけ帰っていた時期がありました。それでも中学・高校時代だったような・・・・・
小学5年と2年生にはちと早い気がしますが・・・・
まあ子ども達も、親のいないほっとする時がほしいのでしょう。

ちなみに今週の土曜日も、2人とも外泊予定です。
(2000年6月)

2000年5月吉日

花のゴールデンウィーク中の5・6・7日に、東京に行ってきます。義弟の結婚式があるのです。いやいや、めでたいめでたい。
ついでに、あのディズニーランドにも2日間行ってくる計画なんです。いや〜。楽しみ楽しみ。・・・・・ほんとに?
4月に交通事故にあったにもかかわらず、キックボードで疾走している私です。
(2000年5月)

サーカス

先日サーカスに行ってきました。
海の側にある埋立地に巨大なテントが出現し、風が吹けば砂埃が舞い上がり、はためく幟が春の空に高笑いを残したまま人々を飲み込んでいます。

暗く足元もおぼつかないテントの中は、かび臭い湿気と熱を帯びた電球に群れる虫達が狂喜乱舞して、その影は厚いゴムの天井に揺らめきツウという一声を残しているのです。

わけも無く口元に薄笑いを浮かべた観客は、ステージや空中に広げられる世界に心を毟り取られて、隣にいる人が首撥ねられようとも気付かない異界に身を沈めています。

ただ一人、わが身の不快に身をゆだねて泣き叫ぶ赤子の泣き声だけが、かろうじてこの世に繋ぎ止められてました。

御代の分は楽しんだろうと、一斉に硬い椅子から剥がされて外に追い出されてみると、檻の中には白子の虎が世界にも珍しいという踊った看板の下で、額に怪我を負い赤い肉を晒してうろつき回っていました。

桜吹雪の中、サーカスには行ってはなりません。
(2000年4月)

古代エジプト展にかこつけた福岡散策

当日は天気も良く、まさしくドライブ日和だったので、皆朝から興奮気味でした。
あいも変わらず騒々しい車内はいつものことですが、途中のパーキングではモモコが早くもお土産探しで、キーホルダー売り場のふさふさ動物に頬摺り寄せているし、コータロウは食べれそうな土産をなめるように物色しています。
かと思うと、博多の都市高速に乗って、見渡すばかりのビルの海となり、それを見たコータロウは「ウォ〜〜!!」と吼えていました。
おいおい、お前はテキサス州から出てきたカウボーイか!

10時5分頃に博物館に着くと広大な駐車場は、中古車センターさながらの混雑です。
駐車している車は、鹿児島や宮崎県そして広島や山口からも来ています。
車を停めて振り返えると、もう入場口には満車の看板が出て、道に縦列が出来ていました。
まさしく「滑り込みセーフ」というところです。
しかし、これだけの人気だとは・・・

会場は当然のごとく、人・ヒト・ひとです。
「こりゃ〜大変だなー」と話しながらチケット売り場に並んでいると、なにやら窓口の向こうで手を上げたり、飛び跳ねたりしている人がいるではありませんか。
窓口なのでチケットを一人売っては飛び上がり、座ってはまた一人売って飛び上がります。
まさしくデニス・ロッドマンのように。
そして、我々がいいよいよ窓口の手前に行った時、ついにその人は窓を閉じてしまったのです。
窓口は2つしかなく、この大縦列の中では、まったく思い切った行為としか言い様がありません。

にこやかに笑い、手招きしているその人は、なんと友人の奥さんだったのです。
5年程前にうちに遊びにきて、覚えていたんですね。
この群衆の中、猛烈に忙しい仕事中によくぞ僕らを見つけたものです。
しかも数百の目の前でのあのパフォーマンス。
皆の視線はその原因となった我家族に、一斉に注がれたのは言うまでもありません。
その注目の中、我々はただのチケットをもらい、ヘラヘラとしながら入場したのです。
チョ〜ラッキーです。「へへっ、へへっ」と言いながら・・・
やはり持つべきものは、友人の奥さんです。
(思い起こせば日田旅行のときの旅館も、友人の奥さんが電話を片っ端からかけてくれて見つけてくれました。)
感謝。感謝

展示場の品々には、やはり本物の迫力があり圧倒されてしまいました。
写真などでは分からなかった石像の首など、めちゃくちゃデカカッタですゾ〜。
TVや本で見たような棺おけ(?)や絵文様は、生で見ると時代を感じさせません。
今から4000年前のものとは思えない完成度の高さ、曲線の美しさ、そして豊穣な文化はさすがエジプト文化です。
そりゃあ、日本の文化ではないので珍しくはありますが、数千年前とはとても思えません。
今でも通用しそうな斬新なデザインや、神に対する敬虔と言おうか謙虚な人間の姿勢が推し量られてとても感動しました。

モモコは途中からダル〜としていましたが、コータロウはとりあえず全部覗き込んであれこれ聞いてました。
僕もはじめて知ることも多く、ガラスにへばりついていたら、監視の人に「離れてください」と注意を受けてしまったほどです。
(また注目を・・・・)
ミイラもいましたし、ミイラ化するときに内臓を取り出した左下のわき腹には、なんとテレホンカード状(全くそっくりな)の白色合金で蓋をするんです。
乾燥したミイラには、今もまだ頭髪が残っているし・・・
それにそれに・・・と話も尽きないのですが、やっぱ本物は色々と想像力をかき立てられますね〜。
まだの人は、ぜひご観覧ください。興奮間違いなしです。

図録も買ったし、後は少しずつ読んでゆきたいと思います。
久しぶりにゆっくりと博物館を鑑賞しました。
中にある世界のおもちゃや楽器が置いてある体験室も、しばらく遊んでいたのですが、見ているうちにモンゴルの馬頭琴が棚から落ちてきて、壊れてしまったのです。
その少し前には僕も触っていたので、ひょっとしたら俺の置き方が・・・しかし・・・なぜ・・・置いてから5分後に突然・・・ものすごく反省しています。ごめんなさい。

博物館の後には、隣にある福岡市立図書館に行き、近代図書館の様を驚きを持って見て回りました。
あんなのが近くにあったら、ますます図書館通いにはまりそうです。
その後は防災センター(何の脈略もないのですが、以前僕が一人で博多来た時に目をつけていた施設です)で、地震・強風・消火・非難訓練をしたんです。
結果的には子どもたちは、これが一番面白かったようですが、震度7の激震をテーブルの下で体験したり、風速30mの中では声も出ませんでした。
極めつけの避難訓練では、停電になったと想定された暗い15余りある迷路の部屋を脱出するのです。
しかも部屋には煙が充満し、部屋の4方にはドアがあり、火災現場もあるというリアルな現場脱出でした。
2つぐらい部屋に入った時には、みんな必死な形相です。
途中でコータローはいなくなってしまい、施設中に聞こえるような声で「コータロウッ、コータロウ〜ッ!」と連呼しても返ってくる声の居場所が全く分からず、大騒ぎです。
「どうしてこうなるんだろ〜?」

福岡ドームにまで足を伸ばしたのですが、運悪くダイエーのオープン戦で、観戦バーでの野球場は見れませんでした。
1000円の金を惜しんでガラス越しに覗き込んで、オレンジ色のメガホン畑を見ていると、店の人が出てきてどうぞ〜と睨むように招待してくれましたが、またもヘラヘラと笑いながら辞退した次第です。
その後は、私は美術館に行き、他のみんなは大濠公園で遊んだ後、元祖長浜ラーメンで腹いっぱいになって帰ってきました。

さすがに皆クタクタになりましたが、久しぶりに楽しい休日を過ごしたものです。
しかもこれだけ色んなことがあっても、我が家にとっては比較的順調な家族旅行だったと皆で総括しています。

よかった。よかった。
(2000年3月)

2000年2月吉日

皆様いかがお過ごしでしょうか?
もう、あっという間に2月ですよ!!
この間まで2000年問題だとか、何だとか騒いでいたのに、もう、もう2月です。
ハ〜。早すぎる。と、身にしみてしまいます。

しかし、この頃別な「2000年問題」で困ってしまうことがあるのです。
領収書も含めて書類に日付を書き込む時に、「19」で始めてしまったり、勢いよく「2000」と書き込むと、思わず3桁目にコンマを入れて、「2,000」になってしまったりするんです。
そんなことないですか?俺だけかな〜?
これを俺は「2000円問題」と言っています。

相変わらず厳しい寒さに晒されています。
皆様もお体ご自愛下さい。
(2000年2月)

2000年1月新年です

明けましておめでとうございます。
本年も変わらぬご寛容にて、お付き合いお願い申し上げます。

実は今、高校時代に一緒に船に乗っていたクルーが出したCDを聞いていました。
今も軽トラックに乗りながら音楽活動を続けているという彼の声は、懐かしさと自負、それに不安を奏で、思わずグラスの氷を鳴かせてしまいます。

目の前では、貰ってきたキスの冷凍を剥ぎ取る彼女の指が冷たさで赤く染まり、それをただぼんやりと酔った目で眺めている私が座っているのです。
多分こんな風に今年もあっと言う間に、たばこを燻らせたまま過ぎ去って行くのでしょう。
まあ、それもいいかなとふっと思ってしまう今日このごろです。

まだまだ厳しい時代が続きそうですが、皆様もお体にお気を付けて・・・・
(2000年1月)

1999年5月の感想文を通じたやりとり

>感想文よみました。
>ゴリラが4センチだったとは、この10センチの差は何なのか、
>とても気になります。確か人間でも4センチあれば十分だと
>聞いた事があります(膣の長さが約4〜5センチなので)
>しかしそれではどうも、多くの女性が満足しないみたいです。
>なぜ?

機能的に満足するのに、満足しないという感想や文化を創ったのが、なぜかと言う事が問題なのです。
問題が無ければ、それは変化する必要性が生まれず、変化しないのが自然淘汰です。人類は、何かの必然的理由でここに問題を発生させたのです。それが何なのか分からないのです。
様々な説はあります。
友人Aの猛々しいという説もあります。
しかしそれが生きるか死ぬかの極限で生きている人類が、変化の物凄いエネルギーを使って変化させる理由になるでしょうか?
いっそのこと羽でもはやして、生活領域を広げた方が生き延びる可能性は広がります。
基本的には、生き延びる身体変化が第一条件なはずです。

>不思議だ。人間の感度が鈍感なので、圧迫感を求めた結果か、
>それとも単に見た目が猛々しいのが偉いと皆が認識した結果
>なのか。

圧迫感を求める必要性は、受精の絶対条件には繋がりません。
とにかく確実に、有利な遺伝子を受精に繋げるのが第1目的なのです。
勿論自己の生命を維持しながら・・・

僕が思うに、メスの発情期が無くなってきた事と何らかの関係があるのでしょう。
人類の祖先が、生きていくために弱い類同志のコミュニケーションを高めてきた事は想像できます。
高められなかった、非群の人類は多分死滅していったのでしょう。
そのコミュニケーションの1つとして、交尾は重要な意味を持っています。

チンパンジーやボノボ、または子殺しをみても想像に難くありません。
メスは、次第に発情期を無くして、年中交尾可能に変化させます。
勿論その中で、精子戦争でみたように有利な遺伝子確保という戦略があった事は確かでしょう。
オスは自分の遺伝子が必ず次世に繋がるように、メスを監視します。
その為に常にメスの近くにいなければなりません。
それは群れの形成に繋がります。
メスも出産後の事を考えると、オスの役割は重要ですので、オスを利用します。
しかしそれだけでは固定した遺伝子しか確保できません。

そこで他の遺伝子も必要とするために、他のオスもいる群れを必要とします。
オスはオスで他の卵子を必要として、他のメスを必要とします。
群れの拡大は、不倫の可能性を高め、有利な遺伝子継承に繋がるのです。
あなたの言う猛々しいは、ここで有利に働き出したと考えられています。

つまり、俺は体の細胞を脳にまわす必要も無いぐらい優れて成熟しているのだ。
それぐらい優れた遺伝子なんだぞというサインです。
体毛が無くなってきて、正面から向き合ってくるようになってきた先祖は、メスは乳房が膨らみ、オスはペニスが膨張したと・・・

群れの維持のためにはひっきりなしにセックスします。
必死に繰り返します。
ペニスはこすれて張れてもくるかもしれません、そこで細胞としてのストレスが高まります。
頑強でないと連続セックスには、耐えられませんから。
張れて痛みがあっても、セックスしたい情動に繋がるために、他では得られない快感と楽しい気持ちが必要になってきます。
それがセックス文化の動機なのかも知れません。

まあ常識的に考えると、上記のようなところではないかと思います。
それにもう1つ見落としてはならないのは、脳の発達です。
脳の発達は、いつしか生殖の目的から遊離して、イマジネーションのセックスに進化してきたのではないでしょうか。
今後セックスレスが進み、仮想のセックス文化が増え、マスターベーションこそが崇高な脳のセックスと化して行くのです。

本当か?・・・・
(1999年12月)

散歩の果てに見たものは・・・・

久しぶりに晴れた日曜の午後に、家族で長距離散歩に出かけました。
とりあえず町内の大型スーパーを目指して川沿いをぶらぶらと歩きながらモデルハウスを覗き込んで冷やかしたり、庭木の花を愛でたり兄妹で小突きあったりののんびりとした時間を過ごしていました。
そうこうしているうちにふと見ると、対岸で農協祭りがやっているではありませんか、我が家は早速その賑わいに身を投じることにしました。

何があるのか見てみたい徳さんと、安い野菜に今晩のおかずが渦巻くカヨちゃん、ピカチュウの石像を見つけて声を上げているモモコ、ひたすら「腹減った。腹減った。」と早くも足を引きずり出したコータロウ。
思惑はそれぞれですが、人ごみに突入した次第です。

思いのほか多くの出店があり、見慣れた夜店に混じり竹細工店や研ぎ師のお店、なぜか分からないが電気店や家具屋まで軒を連ねています。
直接持ち込んでいるのであろう農家のおばあちゃんが、土のついたままの野菜や自家製の漬物を無造作に足元に広げてもいます。

一巡してそれぞれの目的を果たして一段落したかと思うと、我が家の飽くなき欲望たちが騒ぎ始めました。
モモコは綿菓子屋を探し始めるし、カヨちゃんは梅ケ枝餅をほおばっています。
コータロウはさっきうどんとおにぎりを食べたばかりなのに、早くもおでん屋の前で鍋を覗き込んでいるのです。
こいつら食うことばかりか!と呆れて目の前のビルの2階に目をやると「みかん品評会」という看板が目に付き、無理やりみんなを引っ張って階段を上がってみたのです。

はじめて見ました。
本当にみかんの山それまた山、見渡す限りみかんばかりです。
驚くと言うよりも、何か異様な雰囲気です。
その会場を、うろうろと歩き回っているうちに奥の通路につながる廊下の入り口に「祭壇・仏具展示場」という掲示がひっそりと書かれているのを見つけたのです。

こちらはオレンジ色の花畑に、部屋いっぱいに満ちた甘い匂いなのに、目の前にはなぜか電気もついていない冥界への入り口のような暗い廊下が続いています。
あまりにも出来すぎな設定ではないですか!
このまま進んでいったら帰ってこれないのではないかと、不安に立ち尽しておりますと、モモコがずんずんと進んで行ってしまいました。

ジメジメとした廊下の突き当りには、忌の提灯が青白く浮き上がっています。
そのために電気を消していたのかと納得はしましたが、徹底した舞台設定に薄気味悪いものを感じてしまいました。
奥まで進むとなんと白い砂利の門があり、それをくぐると本物の大きな祭壇と棺おけが横たわっているではないですか。
これは展示なんて代物ではないですよ。
マジですよマジ。
思わず誰の葬式か分かりませんが、靴を脱ぎ正面の座布団に座って手を合わせてしまいました。

モモコは見るもの皆不思議がって、あれこれ聞いてきます。
場の力は恐ろしいもので、自然私は声を落として、ひそひそとその疑問に答えていました。
振り返ってカヨちゃんに「これって凄かな〜」と言いながら今一度祭壇に目をやると、なんとモモコが棺おけの小窓をあけているではありませんか。

(ひぇ〜〜。やめてくれ〜。誰かいたらどうするんだ〜。)
思いっきり心の中で叫び声をあげてしまいました。

その小窓の中には、ビニールに包まれた新品のマットが見えて、ほっとしながら「ここには亡くなった人が寝るんだよ」と説明していると、突然後ろから口元に薄笑いを浮かべた男が...

「せっかくだから、寝てみてもいいですよ。」

「ヒィ・・・!!」
(1999年11月)

整骨院への道

このごろはどうもイケナイ。
何がイケナイといって、寄る年波というか、人の意見には逆らえるが時間の流れに逆らえないというか、身体がイメージ通りに動かなかったり、はたまた回復しないのである。
身体が言うことを聞かないと、簡単に理性や意志は後退し、イライラとしているかと思うと、ボーと心は拡散してしまい、ただつくねんと座っていたりしています。
そんな状況を、さすがに身体はやばいと感じたのか、飢えたようにお客さんに何か身体にいいことはないかと必死に聞いて回るこの頃でした。

まずは健康食品。
今流行の滋養強壮剤を買って飲んでみました。
確かに尿の臭いはビタミン臭くなり、朝食後にじゃらじゃらと瓶を振る格好は、日本のサラリーマンになったようで「ファイト!!」と叫んでしまいたくなりますが、その後たばこに火を付け一服すると、たちまち漁の終わったおじいさんに戻り、明日の天気に思いをはせる始末です。

ある日突然左肩が痛み、四十肩かと揉んだり叩いたりしましたが、この痛みは退きません。
特にパソコンを打つ姿勢になると、守護霊が止めろ止めろと小突く用に痛みます。

余りの痛さに、以前店に来た近くの整骨院の先生が「いつでもいらっしゃい」と言っていたのを思い出しました。
まあ肩をほぐしてこの痛みがなくなれば、止めたらいいのだから「物は試し、物は試し」と呟きながらそのマンションの門をくぐったのです。
そこには山ほどの履き物と小さな受付があって、どうもと頭を下げながら保険証を差し出すと、にっこりと笑ったおばさんが、ベニアで仕切ったような扉を指差します。
緊張に汗ばんだ手を一度ズボンで拭いて、ゆっくりとノブを回しました。

そこで僕が見たものは、所狭しと並べられた様々な機械と、ベットというベットに横たわる老若男女の人々です。
「しまった!!何かおかしい」
東洋医学のしんとした流れと、生命観の流れが保証する安らぎが見られません。
いや、よく見るとベットで横になる人たちは、こちらが恥ずかしくなるほど無防備な表情で、弛緩しきっています。
整骨院という名で信者を集める、何かいかがわしい宗教団体の事務所だったか、と踵を返そうと思ったその時です。
「はい新患さん。電気します。そこにうつ伏せになってください。」
「えっ、いや、私は・・・」
「肩ですね。電気がきたら言ってください。」
はぁ?

自分は、何も言っていないのに何故「肩」が痛いのだと分かったのだろう?
肩に手を当てていたわけでもなく、受付でも何もしゃべらなかったのに・・・
一般的に考えて、「腰」という線もあるだろうに??
腰が悪い人間と、肩との人間の典型的な相違があるのだろうか???
それともマンションを入るときに誰かが見張っていて、首を回しながら入ってきたり、足を引き摺っていたりしているのをこっそりと報告しているのだろうか????
などと考えているうちに、肩にチリリと痺れが走り
「キマシタ」
とやや上ずった声で振り向くと、
もうそこには誰もいませんでした。

その一瞬で私の自己は完全に萎えてしまい、ただ言われるまま、されるがまま、揉まれるままにされて、気がつくと「お大事に!」という声とともにドアの外に出されていました。
呆然とマンションの前に佇み、は〜と大きくため息を吐いて軽く肩に手をやると、心なしか暖かく楽になった気がします。

後で聞くところによると、整骨院とは今はどこもそのような指圧や針や機械を使った治療になっているそうです。

そして今日もまた、朝一つ早い電車で店に向かい、整骨院の門をくぐっている私です。
(1999年10月)

蒸し暑い夏の事

今年も夏がやってきました。
古本屋にとって夏休みは、子どもがうじゃうじゃと町にくりだして、カキイレ時のはずですが、コミック中心の大型店が出現してからは、本を売りに訪れる子どもが増えるばかりの、金鳥(お金が鳥の如く飛び立ってゆく)の夏です。

2年ほど前の、蒸し暑い夏の事です・・・・
毎年お盆には、実家に帰っていました。
しかし、その年は友人の親、祖母が相次いで亡くなり、三軒もの初盆を迎えたことを考えると、例年とは違う盆の帰省だったのかもしれません。
あの晩子ども達は、実家の父と母に連れられ夜のドライブへと出掛けていました。
おおかたアイスクリームでもせがみ、お父さんとお母さんには内緒と言われながら、秘密の共有を楽しんでいたのでしょう。
家内は友人宅の初盆に行っており、私は居間で寝転がり一時の開放感を味わっていました。

その晩はなぜか風がパタリと止んでいて、白いふすまは無為に両側に開かれたままでした。
その先には、部屋から漏れる光をも吸い込む暗闇が蹲っています。
虫やかえるの声が聞こえていたのか、記憶にはありません。
それぐらいありふれた、何気ない夏の夜だったのです。

気分良く読み進めた物語も佳境にさしかかったその時、本の背景にある襖と襖の間を、何か白いものがスーと横切って行ったのです。
それは何の前触れもなく、突然訪れたシーンでした。
確かに衣の様な柔らかさを持った白い影が、左から右へとゆっくりと渡って行ったのです。
私は「えっ?」と疑問を抱く間もなく、その光景を時間が止まった中でじっと見ていました。
世界が止まっている中、「それ」だけが動いていたのです。

それがお盆に帰ってきた霊なのか、目の錯覚なのか分かりません。
目をつぶる迄もなく、確信のように脳裏に残ったあの光景は何だったのでしょう。

「文藝百物語」菊地秀行他ぶんか社
怪談ものが百話集められたこの本は、読まない方がいいです。
(1999年9月)

流星群

33年に1回しか、お目にかかれない大流星群。
流れる星の輝きで、影が出来たとさえ言われるほど大盤振る舞いらしい。
我が家もその天変地異を見ようと、数日前から興奮状態でした。

18日午前2時。目覚ましの音にハッと起き上がり、サッとカーテンを開けると・・・・・ドンヨリとした真っ黒な雲。
「ハーーーーーーーーーーア」あとは皆さんのご存知の通りです。
19日9時過ぎに帰宅すると、モモコが「今日は、お星さんいっぱい会いに来てくれるの?」と悲しい目で待っていました。
あの日の夜、みんなで星を見に行くと約束していたので、その日の朝から「お星さんは?お星さんは?」とずっと言い続けていたのです。
今晩は、雲一つ無い夜空。
ひょっとしたらと思い、慌ただしくイヌイット族のようないで立ちで、電波鉄塔の立つ山頂めがけて出発です。
−それはもう、大騒ぎですよ−

真っ暗な山道を行きながら「昔の人は星を見ながら色んな事を考えていたんだ」とか「流れ星がいっぱい降ってきたら、何か不吉な事が起こるのではと心配したんだよ」とか話していると、コータは「どうして奇麗なのに悪い事が起きると思うの?」と聞いてきます。
「う〜ん!!どうしてなんだろう。」
やはり山の上は非常に寒く、誰もいません。
残念ながら雲も少し出てきました。
周りに明かりが無いせいか星の光は煌くばかりです。
寒さを避けるために、みんなで体をくっ付けあって、じっと夜空を見ていたんです。

「流れないね〜。」
「寒いからお星さんは、おうちに帰ってしまったの?」と話しているうちに、スーと一つ流れたんです。
「見た!?」
「うそー。何処?どっち側?」
「ほら。そこに、流れただろう。一点を見てはだめなんだよ。ぼ〜と全体を見ていなくては。」
などと話しながら、しばらく広いグランドの真ん中に4人が絡まって見ていました。

結局僕は三つ、モモコは小さい流れ星を一つ見ただけでした。
それでも、本当にいい気持ちになったんです。
今度は夏に、流れ星探しをしようと言いながら山を下り始めると、
「あっ奇麗!!」
眼下には対岸の街の夜景が、一望に見えてきました。
両手いっぱい広げても抱え込めないほどの、赤や黄色、青や緑の様々な星たちです。
ゆらゆらと煌く、すばらしく奇麗な流星群でした。
(1999年8月)

「もののけ姫」回想

この間から500ピースのジグソーパズル「もののけ姫」に、コータとモモコとの3人で取り組んでいます。

彼らにとっては「もののけ姫」が、家族揃って行った初めての記念すべき映画であった事で、ことさら思い入れもあるようです。
その時の事などを話しながら、少しずつその絵柄が出来上がって行くのは結構楽しいものです。
2年前にその事を書いた文章があったので転記します。

この前の日曜日に、家族全員で映画を観に行きました。
モモコなんか、生まれて初めての映画館です。
前日からコータは「真っ暗な部屋で、大きなエイガを見るんだよ。恐いぞ〜。モモコは泣くかもな。お兄ちゃんはもう行ったことがあるから、大丈夫だけどね。」と兄ちゃん顔で教えていました。
初めて映画館に行った時とうのコータは、すでに暗くなって入ったことと、画面のゴジラに度肝を抜かし、イスとイスの間にへなへな〜と座り込んでしまったのです。
そんなことは、勿論私とのヒミツ中の秘密になっています。

モモコは、顔をこわばらせながら「怖いけど、みんなで手をつないでみるから大丈夫!」と応えています。
だけど、ちょっぴりまだ不安で「お父さんの横にコータ、そしてお母さん、それからモモちゃん…。モモちゃんは小さいから、お母さんとお父さんと手をつなぐから、え〜と…」と座る順番を必死で考えています。

帰ってきて晩ゴハンのうどんを食べながら、やれあそこが怖かったとか、あそこは凄かったとか、タタラって何?とか、皆でワイワイ話をしました。

「お父さんのこと、今日からアシタカと呼んで!なんかそっくりだっただろう」
「わが名はアシタカ!村の子どもよ、心静めてうどんを食べよ!!」

「・・・・・」

「やれやれ…。お父さんって本当に単純なんだから。でも又みんなで映画に行こうね。」

「承知!!」

まだ、アシタカになり切っているお父さんであった。やっぱり一番喜んでいたのは・・・!?
(1999年7月)

花火大会

町内の盛大な花火大会に行きました。
われらは、防波堤に腰掛けて、夏の風物詩を心より楽しんでいたのです。
時折打ち上げられる大きな花火に、オオと声を揃えて上げ、「奇麗かねー」と、相づちを打ったりもしていました。

僕がぼんやりと、花火の残り火を目で追っているとき、ふうっと目の前を幼子の影が横切り、視野半ばで不自然に消え失せたのです。
エッ!と思い、下を見るとそこには、波防ブロックの隙間が何も言わず、黒々と口を開いているだけでした。

「モモちゃん!!」悲鳴に近い声が!

真っ黒な穴に飛び込むと、声もなく我が子モモコが引っかかってました。
その日、どの花火よりも大きな歓声を勝ち取ったモモコであった。
(1999年6月)

麦畑にしゃがみこんで

私は、お墓に住んでいました。

大学を卒業して開店した夢屋も、ようやく軌道に乗ってきたある日、友人から大分の山中で麦畑を開墾しないかと誘いを受けたのです。
元来無軌道で無責任な僕は、ほ〜それはなかなか面白そうだといい加減な針路変更をしたのである。
ワンボックスの車で収まってしまう身の回り品を持って、たどり着いた場所はなんと墓場の入り口でした。

彼の話しによると、畑は人里はなれたところにあり、そこに夜露をしのぐものは皆無で、タヌキやイノシシ同様に土の上に寝るしかないそうです。
そこで知り合いのお寺に相談すると、お墓の清掃・お地蔵さんの身の回りの世話(?)をすると言う条件で、地蔵堂に住まわせてもらえるようになったらしい。
さすがは仏の慈悲だと思うが、お墓に住むことになるとは・・・

そう広くもない墓場の隅っこに、そのお堂は建ってました。
木造と言うよりも、板を寄せ集めたようなそのお堂の正面のガラス戸を開けると、お地蔵さんが柔らかい顔で微笑んでいました。
その日から、[偉大な家主]の居候となったのである。

翌朝早くガラス戸が開く音で目を覚ますと、お婆ちゃんが手を合わせてお地蔵さんに何やら話し掛けていました。
話し終えると、所在無く布団の上に正座していた僕らに向かって、深々と頭を下げるとすうっと去ってゆきました。

それから僕らの一日は、二人のお地蔵さんから始まることとなりました。
(1999年5月)